大田原市の神社資料
▊野 崎 村
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-5丁
本村は薄葉、平澤,豊田、成田、澤、上下石上の舊七村を合せしものにて幅員東西三十四町南北一里余にして一の小村たり咽澤村は殆と中央に位し他囮に散在せり地勢西南は丘陵起伏して鹽谷郡と隣し東北は原野相亘り箒川中央を流れ灌漑の利あり 村民一般農耕を業とし風俗篤實にして勤勵の風あり
古來沿革に付ては往時各領主を異にし太田原藩領に或は旗下の釆地たりしか維新后に至り栃木縣に屬し第三大區八小區及ひ九小區に分屬し后又三戸大字役場の所轄に屬し后町村制實施に際し之を合せて一自治村となせしものなり
村社七社ありて其氏子戸數四百六十余戸人口三千三百九十余人を有す
八雲
八雲神社
[やくも神社]
栃木県大田原市・薄葉1847-1
主祭神:素盞嗚命 境内社:愛宕神社(火産霊命)・加茂神社
詳しけけけむけむむいことは分からない。
覆屋内右端に八雲神社,中央に加茂神社,すると左端は愛宕神社か。
平成十九年2007石鳥居と,その脇に庚申塔など三基。
境内に多数の石塔が奉納されている。大黒天,二十三夜塔,足尾山大神,熊野山,月山・湯殿山・羽黒山供養塔など。
天明四年1784,天明五年1785石燈籠。
例祭:7月4日 神輿渡御
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加茂神社 |
八雲神社 |
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| 大黒天 |
二十三夜塔 |
左:足尾大神 |
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天明五年1785 |
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| 天明四年1784 |
鳥居右手 |
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薄葉
薄葉温泉神社
[うすばおんせん神社]
栃木県大田原市・薄葉1229←878
主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:譽田別命
大正四年1915合祀の天満宮ほか熊野,稲荷,八雲神社の例祭が四社祭として七月に齋行される。
那須郡の温泉神社社伝と同じ。那須與一関連。以前の当社社伝には関係社として諏訪があげられていたが,平家物語では「南無八幡大菩薩,我国の神明,日光権現,宇都宮,那須の湯泉大明神,願はくはあの扇の真中射させてたばせ給え」と諏訪は出てこない。諏訪がこの地方に関係してくるのは那須與一の兄6人が頼朝によって配流された諏訪の大明神を郷里に勧請した諏訪七社からと思うが遠い昔のことだ。
境内の御影石に刻まれた詳細な社伝には考証が進んで諏訪は触れられていない。
この石碑は人名はもとより干支にも読み方がつけられていて素人にはとてもありがたい。達筆すぎて困る書家にまかせず,読みやすい書体ですばらしい。範とすべきである。
永禄七年1564より後に薄葉外記行國が再建。736坪。
『栃木県神社誌』平成18年版記載の薄葉878は欠番で上薄葉集落センター南に見つかった温泉神社の住所1229を載せておきます。
例祭:10月20日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 上薄葉 阿見多聞
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 上薄葉村鎮座 祭主阿見氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-7丁
野崎村大字薄葉鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 譽田別命 健御名方命 祭日九月九日 建物本社間口三間奥行仝茅葺 拜殿間口三間奥行二間半茅葺明治廿二年1889再建 末社一社 鳥居一基 石燈籠二基 氏子本戸數六十三戸現在戸數七十五戸 總代蛭田初太郎山本留吉渡邊鐵彌藤田金三郎 社掌阿美靜仝村仝大字住
社傳に日く元暦年間那須與一宗隆源義經の命を受け讃岐の八嶋に於て扇的を射る時八幡溫泉諏訪の三神を心中に祈願して末代の名譽を得るにより郡内所々に八幡溫泉諏訪の社を勸請せしなりと 本社も又其ー社にして那須家代々崇敬の神社たり 後永禄七年1564福原家臣薄葉外記行國當郷の(狩野郷名卸庄)小守となる 悉く本社と崇信し冥護を得て遂に大守に進みしを以て本社を再建し社領七石を附し阿美信定を神主に仰付られしより今や三百三十余年奉仕怠たらす毎年九月九日大祭を執行せり 社域四百七十九坪宇館野の平坦の地に在り 境内には老杉古橿高く聳ひ中にも杉大木(周圍四丈三尺)なりしか明治廿五年落雷のために枯れしはいと惜むへし
下石上
湯泉神社
[ゆぜん神社]
栃木県大田原市・下石上1549-1
主祭神:大己貴命
創建年は分からない。406坪。
例祭:10月19日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-8丁
野崎村大字下石上鎭座 村社 溫泉神社 祭神 大己貴命 少彦名命 譽田別命 祭日九月十五日 建物本社間口三間奥行二間半茅葺 木鳥居一基 氏子六十五戸總代三員 社掌同上
本社創立年月詳ならす 再建は文化八年1811正月にして宏壯たり 社域四百二十坪淸洒の地にして境内には古杉老樹蓊蔚にて風致愛すへし
上石上
石上神社
[いしがみ神社]
栃木県大田原市・上石上531
主祭神:石凝姥命 境内社:愛宕神社・加茂神社
小野崎家の氏神だった。上石上村字山神堂に鎮座した。昭和五十六年1981現在地に遷宮。476坪の境内に石宮。
例祭:2月13日
上石上温泉神社
[かみいしがみおんせん神社]
栃木県大田原市・上石上1555-2
主祭神:大己貴命・素盞嗚命
那須与一時代より先に四方字宮に鎮座し,石上郷神社と称したという。与一帰国後当社を修理し,湯泉大明神と改称した。
大正八年1919八坂神社を合祀して同年社殿改築,拝殿新築。631坪。
例祭:7月4日 城鍬舞奉納
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 上石神村 白井但馬
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 上石神村鎮座 祭主高野氏ナリ
熊野神社
[くまの神社]
栃木県大田原市・上石上831
主祭神:伊耶那岐之命・伊耶那美之命
詳しいことは分からない。200坪。
例祭:4月24日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 熊野大権現 下石神 大武長門
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
熊野大神 下石上村鎮座 祭主大武氏ナリ
平澤
平沢湯泉神社
[ひらさわゆぜん神社]
栃木県大田原市・平沢157
主祭神:大己貴命・少彦名命
創建年不詳,文治五年1189か。大正十一年1922火災にあっているので下記の社伝は失われたか。457坪。
この社伝には扇的の際,船の上で刀を持って舞っていた武士を射殺す場面が出てくる。一読を。
例祭:10月17日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-9丁
野崎村大字平澤字鍛冶内鎭座 村社 湯泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 建物本社間口二間奥行三間半 末社三社 木鳥居一基 石燈籠一基文政元年1818福原常產奉納 同燈籠一基文政十三年1830奉納 氏子二十二戸總代渡邊瀬平森嶋徳太郎渡邊善次佐藤榮太郎 社掌同上
社傳に曰く抑下野家國那須郡上庄石上郷平澤村湯泉神社は祭神大己貴命少彦名命にして那須與一宗隆の勸請なり 是より先 後鳥羽天皇の御宇元暦二年1185二月廿日讃州八嶋の浦に於て源氏は風伯枝を琅すの松下に隊伍を聯ね平氏は怒濤巌を噛むの海中に軍艦數十艘を並へ對陣日既に晡と過るの折柄盛艤せし一舟を渚に漕き寄せ當時美人の聞へある玉虫官女をして應して其舟艦に建たる竿頭の軍扇を射するを荐りに請はしむ 茲に於て源氏大將義經共射手を畠山重忠に命す 重忠病を以て辞す 依て其器を問ふ 重忠答曰命中の達者は下野那須の領主那須太郎資隆仝十郎爲隆若くは其弟與一宗隆に加すと 義經即十郎に命す 爲隆固辞するに一の谷襲撃の時崩岩に觸れ弓手に疵生し其痛未全癒せさるの故を以てす 大將焦慮怒に耐へす 爲隆を軍中より追退け次て弟與ーに命 す與一年▢に十七歳兄の覆轍を鑑み亦固辞するを得す 即命を奉し只一騎遥に進んて滔々たる海中に乗入れ既に海水鞍の前輪を湛すも隔ると敷百歩鏑矢擧て打番ひ見渡せは扇面の日章夕陽に映し其紅輝旭に向ふ如し 故に之に中るを憚り船亦淙沈的定らす 爰を以て挿際を射切に加すと觀念し心中に正八幡大神別て我國の神明日光権現宇都宮明神那須溫泉明神願くは扇的の眞中を射させ給へと祈念して矢を發す 羽風海面に起り嗚鏑未た耳に達せさるに其矢既に扇要を切断し敵上遠く飛て潮に濫す 扇は亦飜番+風として小蝶の舞ふか如く渺々波上に堕て漂ふを見て源平兩軍賞譽の聲暫く嗚止さりけり 宗隆心勇み汀に近く駒を寄せる折柄伊勢三郎轡を嗚して馳來り將命と傳て曰美姫の側に在りて長刀を振り立舞ふ處の一武者を射殺せと因て手早に矢を番ひ身を向き反りなから征矢を發し海中に倒す 是此擧をなすは平將か巖嶋神社に祈り曾て高倉院か奉納在られし所の軍扇を請へて的として彼戎の武運をトせしものなれは源平盛衰の前兆斯に顕然たり 實に源氏の名譽なり 故に宗隆文治二年頼朝の命として家兄十人を閣き父の家督を繼かしめ次て那須の武者所に任し尚扇的の賞として武藏の太田信濃の角豆庄若挾の東宮庄丹波の五賀庄備中の荏原庄を賜はり功を日本全國に發揚せられて恩遇甚厚し 故に宗隆は常に鎌倉に在留せしか仝五年源頼朝自ら將として泰衡追討の時兵を沿道に徴す 爰に於て宗隆始めて古郷に歸るを得たり(以上那須記に明他)茲に於て射扇の祈誓を果す爲め產土宮と尊崇する那須湯本の溫泉神社を領内を分祀せんこととを令して各村落に勸請せしむ(今に陰暦五月六日より八日迄本郡一般に田植休むは該神社を分祀せし日に基因するものと云へ傳ふ)本社も分祀の一にして宗隆直轄の地なりしか後十五代那須太郎資永の時に至り一家の内亂に攄り嫡家亡ふ時文安三年1446丙寅年十二月なり 次て烏山城主那須資持枝流より出て嫡家と繼くにより其領地と成しか天正十八年那須修理太夫資睛豊臣關白の怒りに觸れ所領を没収せられ鳥山城退去の砌り一門福原安藝守資孝の領地となる 當時本村には那須家臣岡下總守在居せしか那須家亡ひしを以て所領とを没収せられ後福原家の臣となり後主家の姓を賜り承應二年頃は福原將賢と稱し本村内に於て高四十六石余又仝家臣に大窪又右術門なるありて高廿一石余を知行し倶に湯泉神社を崇敬し敬神の道厚かりしか天明の凶歳以降知行を上知し麋米取となり神官は其始群ならさるも福原家領地以後は佐▢▢集の代より世襲して神事を司り慶應二年佐久山城の養子大内藏なる者素京都に居りたる縁故を以て町尻宰相量輔卿の傳奏により本社に▢る神位を賜はられし由なりしか大内藏なる着養父と折合す 且領主の許可を得すして上京し夥多の社金を費したる廉により神位を携帯の儘逃亡せしを以て今は其証なし 又明治元年頷主福原内匠資生は各藩に卒先して勤王を唱ひ出陣し白川民政局を管轄し爲に朝廷より賞金若干を賜はられしも表高三千五百石込高七千五百九十二石余合高一万石以上なりしも表高一万石ならさるを以て藩知事に任せられす中太夫となり次て領地を上知せしむ故を以て普代相傳の家臣一百有名と一町十村の士民に離別し東京府貫屬士族となり上京するに▢る故に本社も年々祭祀斜として領主より賜ふ處の麋米數十俵を失ひ次て神官佐▢山城も▢▢し元境内も廣く殊に山林等數町歩ありしか今の社境に減縮せられ餘は有租地となり人民の所有に屬せられたり 依て今日に到りては氏子の負擔に歸し僅に舊典を存せるのみ
諏訪神社
[すわ神社]
栃木県大田原市・平沢351
主祭神:建御名方命
詳しいことは分からない。明治期の創建か。
石垣で一段高くなった境内にコンクリート風の長方形の覆屋が建っている。ドアノブの付いた観音開きのドア。191坪。
例祭:7月27日
野崎
野崎神社
[のざき神社]
栃木県大田原市・野崎2丁目20-4
詳細不詳。社殿は石製で鉄の扉。中は見えない。昭和二十六年1951石鳥居。
境内に野崎自治公民館。
大田原の神社は小生間質性肺炎を患い,経済的・体力的に回れそうもありませんので,下調べだけにとどめます。ご勘弁ください。
▊那 須 郡 『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀▢霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て太田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ太田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には太田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拝し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關太田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す