大田原市中心部の神社

▊大 田 原 町  *『下野神社沿革誌』明治三十五年1902五月十日發行 巻八-4丁
本町は大田原,刈切,浅野の舊宿村を合せて一の自治區となせしものにて其幅員東西十四町南北三十二町あり舊大田原は舊奥羽街道の要路に當り人家連檐櫛比し刈切田は東南部に位し地勢東北は蛇尾川を隔て〻金田村に隣し西北南の三面は平原相連り西那須野村に界し土地平坦最も繁盛なる一市街地にして町民は商工業に従事し浅野刈切は農業に従事し頗る勤勉の風あり而して近時葉姻草専賣支局を設けられ其商業盆々隆盛を來せるなり
古來沿革に付ては往時は大田原藩領にして大田原藩の治廳所在地にあり明治維新に及ひ版圖を奉還するに至り明治四年十一月宇都宮縣の所轄となり次て栃木縣に屬し第三大區九小區に編入せられ其后刈切は別戸長役塲に屬せしか後遂に今の自治區に合併して一町となれり
本町は郡役所々在の地にして村社ありて戸數一千八百二十餘戸人口八千五百餘人を有せり

大田原神社

[おおたわら神社]

栃木県大田原市・山の手2丁目2039

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:火産霊神・素盞嗚命・大日靈貴神・木花開耶姫神・倉稲魂神
境内社:稲荷神社・三峯神社・天満宮・神明宮
大同二年807創建と伝わる。那須郡上中下温泉三社の下社。那須郡の入口に鎭座したので久寿二年1155那須野の妖狐退治に派遣された三浦介義純,上総介弘経が祈誓した。
天文年間1532~55金田村中田原に遷宮,「中田原湯泉大明神」と称した。中田原はお城と水口居館の間あたり。正徳年間1711~16古文書もろとも焼失して時期は明らかでないが維新よりだいぶ前から神社の称号を用いて「下宮湯泉神社」と称していた。城の防御のために蛇尾川土木工事をする頃「大田原神社」と改称。維新の際に郷社指定。
『下野神社沿革誌』編纂中の明治三十六年頃は荒廃していたが,明治三十七年1904大田原城趾のすぐ北,陸羽街道から入ったところの現在地,龍城公園北側丘陵に遷宮,境内地は中田原時代の3275坪から1万4934坪に拡大し,壮麗な社殿を造営して大田原総鎮守となる。
境内に朱鳥居多数の「伏見稲荷神社」,鳥居付きで「聖徳太子」。明治十年1877創建の「大田原護国神社」,同じ覆屋に「龍城稲荷神社」,「三峰神社」。聖徳太子裏手の石宮が神明宮か。
例祭:9月15日
四月に九つの町内から繰り出される屋台の「ぶっつけ」が行われる。この大田原神社の屋台行事は2018年11月に市の無形民俗文化財に指定された。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 下宮湯泉神社 大田原城下 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
下宮湯泉神社 大田原城下鎮座 祭主佐藤氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-65丁
金田村大字中田原字社地郭鎭座 郷社 大田原神社 祭神大己貴命 少彦名命 建物本社間口二間一尺奥行二間三尺 拜殿間口三間半奥行二間 樓門一棟 華表一基 氏子七百二戸 社司山本靜衛大田原町住
本社は往時大田原藩主崇敬の神杜にして明治維新の際郷社に列せらる 然れとも正徳年中1711~16祝融の災に罹り由緒書及ひ古書類灰燼に歸したれは惜むらくは沿革詳ならす 今社宇の現存するもの本社拜殿樓門等にして神職は印南家にて代々奉仕し社殿の結構輪奐たりしか今や大に破壊に傾き只葱々として榮ゆるものは楓樹のみ 社域三千二百七十五坪大田原町を距る五町余にして土地高燥雑樹蓊蔚にして頗る深邃の趣きあり
夫婦杉
延享四年1747手水石 左端:元治元年歳1864在甲子秋八月吉辰
「文化四丁卯年1807春三月吉日」常夜燈 「奉献湯泉社・宝暦十二壬午年1762正月
吉日・永代常夜燈」左右一対
多数の燈籠 昭和十五年1940狛犬
大正九年1920狛犬 雷神
雷神 風神
水神 神輿庫 昭和十六年1941狛犬
  拝殿額
茅の輪 額絵馬解説

大田原伏見稲荷神社

[おおたわらふしみいなり神社]

昭和五十三年1978龍城稲荷神社境内跡に創建される。龍城稲荷は手前の三社合祀社に遷宮。大田原資清が天文十四年1545蛇尾川沿いの龍体山(=龍城山)に大田原城を築城した。昭和十二年1937から龍城公園として整備され300本以上の桜が咲きほこる。
案内看板はつぎの通り。
主祭神 宇迦之御魂神[うかのみたまのかみ]
御事歴 倉稲魂神とも申し速須佐之男命の御子で御母は大山津見神の女神大市比売命であります。食物の事を掌り給う事を本質とし,農工商水産あらゆる殖産興業の守護神として私共の生活のすべてに御神徳を垂れ給う大神様であります。
御創建 昭和五十一年1976春,旧大田原藩主一清氏の嫡孫晴康氏から同家累代の家宝として伝えられてきた鉾[ほこ]が寄進せられた。この鉾は平安の昔,朝廷の信任を一身に集めた古今の名匠三条小鍛冶宗近の作であり,宗近は,伏見稲荷の信奉者で日夜祈願をこめて製作にあたり幾多の名品を残した巨匠である。昭和五十三年1978秋,御社殿を創建せられる。
総本宮(京都伏見稲荷)の御分霊を御鎮座奉斉されました。
この境内地はもと龍城山稲荷神社の跡地で藩主とも深い由縁地である。

例祭:5月15日
文化四丁卯年1807手水石 文政丙戌(十年)1827手水石
おもかる石
稲荷大明神幟

龍城稲荷神社

[りゅうじょういなり神社]

大田原神社本殿の右手前,三社の中央に「龍城稲荷神社」。もともとは上記「大田原伏見稲荷神社」が創建される前の境内に鎭座していた。大田原伏見稲荷は昭和五十三年1978創建なので,文化・文政の手水石は龍城稲荷に奉納されたものだろう。
大田原神社はおおまかには大田原城の北に蛇尾橋手前の道を挟んだ「竜頭公園」に鎭座する。
創建時に現在地にあったなら竜頭稲荷になったはずが龍城稲荷を名のるからには城内に鎭座したのではないか。城址公園に立てられた「大田原城之図」縄張図の右端に「稲荷祠」とあるのが創建の地か?
三社の右手は戊辰の役で戦死した大田原藩士を祀るために明治十一年1878創建された「招魂社」で,昭和十四年1939「大田原護国神社」と改称した。駐車場への上り口に「大田原護國神社」社号標が立っている。現在地の南東に銅葺きの立派な社殿があったが東日本大震災で石鳥居もろとも倒壊してしまい,三社の一として遷宮し小ぶりの本殿に祀られることとなった。昭和十六年1941ずんぐりした狛犬は倒壊前の境内地に奉納されたものを移築した。以前は「雷神風神水神」が護国神社の右となりにおられたが,本殿左手にお披露目され,2025現在は覆屋には三社祀られている。
三社
厄割石
三社境内 松本忠直之碑 右:招忠魂碑(明治十年)
「戊辰之役大田原藩戦死人名」碑 大正六年1917国造神社
昭和十二年1937狛犬 しっぽ
すごい造形
昭和十六年1941狛犬 昭和十六年1941狛犬
平成14年2002聖徳太子鳥居 昭和十五年1940聖徳太子
聖徳太子像 ?神明宮 文政元戊寅年1818石燈籠
山中村に神明宮が記録されたが現在社不明。山中は大田原城南の山林をさす村名で,現在の元町二丁目あたりだが,大田原神社の境内社になったか。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 神明宮 山中 増淵民部
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
神明宮 山中村鎮座 祭主増淵氏ナリ

三吉稲荷神社

[さんきちいなり神社]

栃木県大田原市・山の手2丁目17-9

詳しいことは分からない。三吉霊神からなら[みよし]でなく[さんきち]だろう。
紫塚

経塚稲荷神社

[きょうづかいなり神社]

栃木県大田原市・紫塚1-2718-1 むらさきづか

主祭神:倉稲魂命 境内社:古塚神社(神狐之霊)
大田原城主丹治晴淸公が所蔵していた法華経千部が公の逝去後破損したため,寛永十年1633当地に塚を築いて土中に保存し,小祠を建てて経塚としたことに始まる。909坪。
宝暦十年1760創建説も残るが,これは新祠の建造年である。
拝殿裏手に経塚がある。石宮,狐狛犬,石碑二基。明治四十一年1908三月十六日建立の「経塚稲荷碑」には由緒が刻まれている。小型の碑は残念ながら読めない。
昭和十一年1936下記水源神社奉納の石碑。
朱鳥居付近に昭和二年1927石燈籠,大正十五年1926狛犬。明治三十四年1901,明治四十年1907記念碑。平成十二年建立の御影石碑に由来が刻まれている。
例祭:4月第一土曜日
多数の奉納鳥居
拝殿内
経塚の記念碑が見える 経塚入り口
経塚の石宮 由緒
経塚から拝殿 奥に経塚
由緒 明治三十四年1901
天壌無窮 水源神
御神水
 
ヒガンザクラ
紫塚

水元神社

[すいげん神社]

栃木県大田原市・柴塚2-2606

主祭神:水速女命 境内社:厳島神社(市杵島姫命)
寛文三年1663水乞いのため創建。印南文書による別の説では宝永三年1706三月からの大旱魃に大田原藩主が本山修験地蔵院に水語彙を命じた。5月24日沼ノ袋で祈祷すると奇瑞があり掘ってみると清水が湧き出したので水神を祀った。
水速女命は水神の罔象女[みつはのめ]。548坪。
明治三十四年1901「水源神」,元でなく源の字で彫られている。社号は水源にしたいところだが大田原市史に「水元神社(紫塚)」とあるのでこれによった。
例祭:2月18日 秋祭:10月11日
厳島神社
境内の水路 拝殿右手
水源神
元でなく源の字
紫塚

光龍神社

[こうりゅう神社]

栃木県大田原市・紫塚3-2665-15

主祭神:?
珍しい社号で,栃木県にはこの一社のみだろう。何も分からない。
西宮市大谷町に光龍大神,東大阪市の大石神社に熊光龍神,光龍大神の石塔,愛知県岩倉市に光瀧龍神社など。
中田原

小駒崎稲荷神社

[いなり神社]

栃木県大田原市・中田原1551 なかだわら

主祭神:倉稲魂命
配神:大日霊貴尊 大己貴神 少彦名神 市杵島姫神 菅原道真霊
境内社:秋葉神社(火産霊神)
天喜五年1057,源義家が奥羽鎮撫の途次,戦勝祈願のため山城国稲荷神社より御分霊を勧請して創建と伝わる。天正十八年1590豊臣秀吉奥州鎮定のとき那須資晴の子藤王丸に会見した場所。元禄六年1693大田原城主典清によって再興される。164坪。
鳥居脇の縁起に「小駒崎稲荷神社」と彫られている。大震災で倒壊し翌年早くも再建された鳥居額も「小駒崎稲荷」,拝殿額は稲荷神社の前の文字が読めない。三文字でなく二文字のようだ。『栃木県神社誌』新旧版とも解説本文では「小駒押」で植字されている。坂になっているので馬も押してあげないと,というところか。『下野掌覧』は小駒崎。『鹿沼聞書』の小駒島は未解決。
明治四十二年1909九月二十九日,瀬尾,温泉,天,厳島神社を合併。
昭和四十四年1969石階段竣工記念碑 大田原市デジタルアーカイブは「小駒崎稲荷大明神」と「小駒崎」で掲載。
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 稲荷神社 小駒島 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 小駒崎村鎮座 祭主佐藤氏ナリ
小駒崎稲荷額
秋葉山
石階段竣工記念 鳥居跡
本殿
手水石
高いところに鎮座
中央

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県大田原市・中央2-13-8

主祭神:火産霊神 境内社:足尾神社・稲荷神社
文明三年1471十二月創建(建武年間1334~38前室村に創建されたとの説もあり)。寛永十六年1639城主大田原政清が霊夢を見て字上ノ山に遷宮。しかしながら正保三年1646,四年,慶安二年1649と失火が続いたため慶安三年1650元の鎭座地に再遷宮。昭和四十五年1970神明町公民館を新築して神社と併用。鹿島川沿いに鎭座,隣りの薬師堂が立派。
鳥居をくぐって右手に「足尾神社」,公民館左手の朱鳥居は稲荷神社。石宮は昭和十五年1940建立。
公民館前右手に江戸期の六角宝憧。昭和四十四年1969石燈籠。
足尾神社右手に文政十一年1828大黒天,石塔三基。
昭和四十四年1969石燈籠。
例祭:4月14日 秋祭:9月24日
『下野神社沿革誌』に高燥の地で石段数十階上ればとあるのがあてはまらない。文明三年創建,丹治政淸の夢告は一致するので当社に比定した。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-4丁
大田原町大字大田原鎭座 村社 愛宕神社 祭神火產霊神 建物本社二間四方 拜殿間口二間奥行三間 末社九社 華表一基氏子五十三戸 社掌兼社司山本静衛仝町仝大字住
本社は文明三年十二月十七日の創立にして元字新田地の中島に勸請せしか寛永六年八月中領主丹治政淸一夜神人枕上に現はれ告て曰く我は是れ中嶋の愛宕なり字北町の清き地に祭らは火災を能く守らむ我言を疑ふこと勿れと言ひ了つて忽に見えす因て今の地に移遷すと云ふ 社域九百五十二坪高燥の地にして古杉老檜蔚々として繁茂し石磴數十階躋れは石の燈籠左右に双並列し幽邃にして頗る雅致あり
神明町公民館兼拝殿
QRコードこれは便利
六角宝憧 goodアイデア 手水石
拝殿右手前 足尾社 足尾神社本殿
大黒天
拝殿左手 稲荷神社 なんとか稲荷,読めない
中央右奥に薬師堂
薬師堂裏 薬師堂
天和四年1684石燈籠
薬師堂入口
富士見

浅野八幡宮

[あさのはちまんぐう]

栃木県大田原市・富士見1-1769

主祭神:応神天皇(譽田別命) 境内社:稲荷神社・蚕玉神社
安政二年1855三月創建。御祭神は三歳未満の幼児に籤を引かせて決めた。創建の経緯は下記の『下野神社沿革誌』に詳しい。
明治三十年1897本殿と神楽殿を造営。
境内に浅野自治公民館がある。鳥居額は「八幡神社」,『栃木県神社誌』平成18年版では「八幡宮」
例祭:9月15日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-5丁
大田原町大字浅野鎭座 村社 八幡宮 祭神譽田別命 祭日陰暦二月初午日八月十五日十一月二十三日 建物本社間口一丈三尺栃葺 幣殿マグっ二間奥行三間栃葺 拜殿間口六間奥行三間栃葺 神樂殿間口二間奥行三間半栃葺 木鳥居一基 石燈籠二基 末社祖霊社加勢友之助之霊一社 六角石重量四十貫目あり天然の奇石にして寛政年中1789~180一京都某殿の庭石なるを大田原の金屋助八なるもの二十七年の間某殿に勤仕し此石を希望して乞て持來しものなりと云ふ 鐵燈籠二基 洗手磐一基瓦葺 寳物神鏡一面 矢乃根一本 太刀一振 水晶玉一個徑一寸一分 氏子四十八戸總代三員 社掌加勢熊次郎仝町大字仝七番地住
本社創立は安政二年三月十五日にして加勢友之助淺野定次郎山口又兵衛の三氏天保十二年184一中大田原飛騨守に誓願し那須野原二万五千丁歩の曠野開墾に着手しより十五年目の春に到り村民と計り鎭守神を創建せんと諸神の名稱を書き抽籤して八幡大神の籤を揚けれは加勢淺野山口の三氏等悦ひて宮殿を造營し以て勸請せしか濫觴にして后明治十二年八月中再建 仝三十年十月六日官の認可を得て本大字三千七百二十一番地の二號今の地に移轉す 當時本郡大田原町外六ヶ村有志の寄附ありて巨大壯觀なる社殿とはなりぬ
社域四百九十二坪平坦の地にして馬塲の入口には神橋ありて左右には梅櫻枝を交へ花時には▢人西より東より▢至し雑沓を極む
新富

天満宮

[てんまんぐう]

栃木県大田原市・新富町1-8

主祭神:菅原道真公
享保十年1725観音山普門院住職が創建。天明六年1786社殿造営。113坪。
文政五年1822と天保十二年1841に鳥居造営。
安政二年1855天満宮尊像修復,雨覆新築。
例祭:3月25日 秋祭:10月25日
若松

白山比咩神社

[しらやまひめ]

栃木県大田原市・若松町575

主祭神:白山比咩大神・伊弉諾命・伊弉冊命

例祭:月日
美原

千壽稲荷神社/愛宕神社

[せんじゅいなり‏‏/あたご神社]

栃木県大田原市・美原3-3335 みはら

主祭神:倉稲魂命 配神:火産霊命ほか一柱
文明三年1471創建。もと大田原藩鉄砲組がいた鉄砲町はその後,裏林となる。当社北東に美原橋,鉄砲町橋,愛宕橋があった。449坪。
美原町には寛永十八年1641南室に創建された愛宕権現の記録があり,鉄砲町,大田原藩総足軽組,二十軒村,五里塚(五倫塚or五輪塚)村で奉祭した。これも当社の別伝であろう。
『栃木県神社誌』平成18年版では「愛宕神社」で記録され,千木つきの写真もまさに当社と一致する。拝殿内の感謝状の宛名は愛宕神社。拝殿内右手の額に「愛宕山」
しかし拝殿額に「正一位千壽稲荷社」とあり,明治三十七年1904正月建立の二の鳥居の柱にも大きな字で「稲荷神社」と刻まれている。
さて,拝殿内には中央に大きめの観音扉,その左右にほんの少し小さい観音扉が設けられ,右手の扉の上に「愛宕山」額が掛けられている。推測するに中央に稲荷神社が祀られていて,右手が愛宕神社,左手は足尾神社ではないか。大正か昭和のいつごろかに兼任神主が愛宕神社と改称して神社庁に登録したのではないだろうか。
あるいは稲荷神社を合祀して鳥居を移築したとも考えられる。
社殿左手に「渡邊利▢▢那須野原」に始まる三分の一欠損した石碑があり,三行目に「愛宕神社」の文字が見えるが,年号は欠損部にあったろうし,文字はほとんど読めない状態なので,稲荷の文字もあったかもしれない。
明治三十五年1902一の鳥居。柱に「原町▢氏子」の文字。昭和四年1929原町氏子一同奉納の石燈籠。昭和四年1929狛犬。昭和三十八年1963旗杭。
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例祭:10月14日
明治三十五年1902 昭和四年1929原町氏子一同
正一位千壽稲荷社
扉3つ 愛宕神社の文字
明治三十七年1904原町氏子一同 二の鳥居
稲荷神社
西郷

西郷神社

[さいごう神社]

栃木県大田原市・鍛冶屋83-1 かじや

那須野が原開拓に尽力した西郷従道を祀る。明治三十六年1903創建。
小松寅吉布孝・亀之助布行父子の手になる明治三十六年造立の石製本殿が見事。高さ4mほど。全面に精緻な彫刻が施されている。石祠・石宮の超豪華版。
大正十一年1922狛犬。
従道の妻清子が明治三十八年1905に奉納した石燈籠。大正五か九か元年の石燈籠。大正元年1912石鳥居。西郷元帥神靈▢碑。昭和十五年1940西郷農場感恩碑。昭和五十七年1982慰霊碑。
鍛冶屋開墾の創業者,大山巖と西郷従道が鹿児島市鍛冶屋町の出身であることから地名を鍛冶屋とした。旧西那須野町。
国道461号沿い,向かいに丼マル。
例祭:8月26日
 
手水石   本殿
明治參拾六年
 
明治三十八年1905 大正元年1912
狛犬台座
西郷元帥神靈▢
記念碑二基 ヌマスギ群生地 昭和四十三年植樹碑
昭和二十八年植樹記念碑
八幡

八幡神社

[はちまん神社]

栃木県大田原市・鍛冶屋94-528 かじや

加治屋集落センター(加治屋94−422)の東。
拜殿額に「八幡神社」,石鳥居一基。
大田原の神社は小生間質性肺炎を患い,経済的・体力的に回れそうもありませんので,下調べだけにとどめます。ご勘弁ください。

▊那 須 郡 『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀▢霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て大田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ大田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には大田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拝し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關大田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す

 

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