大田原市・佐久山・福原の神社



▊佐 久 山 村  *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-10丁
本町は佐久山,福原,大神及ひ藤澤の舊一宿三村を合せて一の自治區をなせしものにて其幅員東西一里廿四町南北之に同し 佐久山は人家多く相連り中心をして各村之に聚集するの状あり 而して舊奥羽街道之を貫き且里道各村に通して交通の便あり 地勢東北は箒川を控ひて自然の區域をなし西南は丘陵相連り一區をなすものゝ如し 町民は慨して質直にして農商を業とし最も佐久山は商業を營むもの多し
古來沿革に付ては往時各々所屬を異にし佐久山は福原氏の領邑にして福原矦の治廳あり 各村は旗下及福原氏領に分屬せられしか維新の后第三大區八小區に編入せられ更に二戸長役塲に分れしか町村制實施に當り再ひ之を合せて一自治村となす 全戸數四百七十戸人口三千百八十余人を有せり
本村には有名なる八幡の郷社及ひ村社四社福原の愛宕丘山に在る那須與一の碑等あり
福原八幡

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県大田原市・福原1125 字八幡

主祭神:譽田別命 配神:素盞嗚男命・火産霊命・大己貴命・少彦名命・建御名方命 境内社:高良神社(武内宿禰)
天喜五年1057創建。社伝は下記の『下野神社沿革誌』に詳しい。
明治四十二年1909に温泉神社,諏訪神社,八坂神社,愛宕神社を合祀。2011坪。
昭和四年1929社号標。昭和十四年1939旗杭。
解説はこちら:【福原八幡宮本殿】
例祭:10月14日
下記の江戸期の資料で金剛寿院は北向いに現存するので現在社は当社。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 正八幡宮 八幡 金剛寿院
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-10丁
佐久山町大字福原鎭座 郷社 八幡宮 祭神 譽田別命 祭日陰暦正月十四日八月十四日 建物本社三間四方栃葺大宮造總欅木欄干濱縁付總彫刻付土台花崗岩磨石なり 拝殿間口五間奥行三間栃葺 神樂殿間口三間奥行二間杉皮葺 神橋長七尺巾六尺木造 木鳥居一基 末社七社 寶物滋藤弓一張 太刀三振 鉾五本 鎗五本 古鏡一面 籏五流 掛軸一輻 基本財產畑一反三畝二十三歩 氏子福原八十八戸并廿五ケ宿村 社掌齊藤最那須郡湯津上村大字蛭田住
社傳に曰く天喜五年1057の創立にして源義家勅命を蒙り父頼義と共に奥羽鎭國として下向の途次此地に滞陣せしめ戦勝を祈らん爲爰に一小祠を建て山城の石淸水八幡宮を祀りしか濫觴にして夫より本地を八幡村と號くと云ふ 今に關所の淸水沓切澤等の古蹟あり 后嘉承元年1106の秋須藤權守貞信か八溝山中の凶賊岩武九退治の時も本社に祈願し速に其功を奏す 后此八幡村に居城を構ひ城下を北岡町と改稱し當時本社を彌々崇敬して須藤家の氏神とし土木を起し社殿を造營せしむ 元暦二年1185與市宗隆か讃岐の八嶋にて神の冥助により扇的を射るの功を以て本領安堵歸城して宮殿を再築し宏壯輪奐ならしめ増子氏を神職に命し別當には金剛壽院を置き毎年籾五十俵を給し大小祭は勿論常に奉仕せしむ 又祭祀料として毎年籾二俵を寄附せらる貞保*四年→貞享四年1687十月十四日遠江守資彌の代に至りて國除せられしより祭祀料給米等も廢せらる 后元禄十五年1702二月三日那須資徳の代取立られ福原村の内高千石の知行を賜り徳川の籏下となり那須家の上席たり 此時社領として水田五反五畝歩を本社に寄附し天明七年十月那須資明家老高瀬治右衛門總奉行竹尾吉左衛門に命して宏大高潔優美なる宮殿(現今の社殿)を再築せしめ寛政三年1791三月を以て遷宮の式を行ひたりと 北岡町は後福原村と改め八幡村は福原村の字名とはなりぬ 明治三年社領も籏下奉遷とともに歿収せらる
那須家の氏神なるも福原全村八十八戸の鎭守となり仝五年二十五ケ宿村の郷社となる 社域二千四十七坪平坦にして東北に里道を回らし南西には山嶽屹立し山容秀麗にして畫くに似たり 境内には古杉老檜蔚々として天日を蔽ひ晝尚暗く神寂ひて頗る雅致あり
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-11丁
佐久山町大字福原鎭座 村社 湯泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 祭日陰暦九月十九日 建物本社四尺四方 雨覆二間四方 拜殿間口九尺奥行二間 鳥居一基 氏子八十戸 社掌同上
本社は建久六年1195年の勸請にして明治五年村社に列せらる 社域百四十七坪字大宿の平坦の地にありて古杉蔚々として聳ひ淸酒たる境なり

神主益子氏の「正八幡宮」は現在社が分からない。『下野掌覧』は徹底して寺院持ちを排除しているので福原八幡ではない。明治二十二年1889に那須烏山の境村になる大沢があるが,記述の順では福原辺りのはず。つづいて佐久山の前に地名なしで益子兵部の箒根が記録されている。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 正八幡宮 大沢 益子兵部
那須郡 箒根大明神 益子兵部
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
正八幡宮 八幡村鎮座 祭主益子氏ナリ

福原

千勝神社

[ちかつ神社]

栃木県大田原市・福原1515-1 ふくわら

主祭神:猿田彦命・須藤権守貞信靈・那須與一宗隆靈
建久五年1194創建。明治三十六年1903の記録には468坪の境内に90cm四方の本殿,鳥居,燈籠二基とある。また明治二十五年1892建立の高さ3mの「那須與一之碑」があった。この石碑は現在,愛宕山(汗馬山)の頂上に保存されている。とても立派な石碑だ。すると『下野神社沿革誌』の鎭座地「愛宕山」とも一致するので,この石碑のところの小祠が千勝神社になる。碑文も「那須藤氏其先出」に始まり「垂之無窮以介嘉福」で終わっていて完全一致。
立派な覆屋があり左右に石宮が祀られている。格子が小さいので全容は見えない。石祠の中に小さな神札があるが肝心のところが読めない。推定左は「力」が見えるので「千勝神社之神璽」,右は定かでないが「愛宕神社之神璽」だろう。鳥居はおそらく大震災で倒壊していて,柱の根元だけが残っている。笠木などは右手奥に積み上げられていた。汗馬山の解説板が設けられているが神社の記述はないので,社号を示すものは何も見つからなかった。
那須與一之墓は北西200mに。
広報おおたわら2016年7月号に諏訪神社と合祀と書かれている千勝神社は東に430mほどの福原153にある。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-12丁
佐久山町大字福原愛宕山鎭座 無格社 千勝神社 祭神猿田彦命 合殿二座須藤權守貞信靈 那須與一宗隆靈 祭日八月八日十一月十五日 建物本社三尺四方 鳥居一基 石燈籠二基 信徒八十八戸 社掌同上
本社は建久五年1194八月那須資之の創立にして明應三年天和元年明治十四年の再建なり 社域四百六十八坪高丘の地にして櫻樹を植へ花時には一簇の香雲松樹の深翠と相映し頗る眺矚に冨む 竹尾元東有志に議り明治廿五年八月八日を以て那須與一宗隆の碑を建設す 碑の高さ一丈巾四尺五寸稻井菊銘石に刻し題額は公爵近術篤麿にして前大學博士岡松辰の撰文弘前藩主新岡久頼の書にて左の如し
那須藤氏其先出大政大臣道長道長會孫貞信堀河莅國以討賊之功拜従三位下野守賜邑那須尸+立福原又從高楯至今皆有遺趾存焉貞信既有那須於是以須藤爲族後又更日那須其顯實自餘一君宗隆云君考曰資隆於貞信爲六世孫亦拜従五位下下野守娶下野大亟小山政光妹有丈夫子十餘人而君其季也相傳小山氏娠君遇期未娩禱八幡大檞二神蓋禰廿四月而生君於兄弟次爲弟十一因號曰餘ー源頼朝之擧兵於伊豆弟義經至自東奥將有輔頼朝資隆携君興其兄爲隆謁義經於塗次自是得従在軍中及義經與諸平戦八鳩日晡諸平軍船上建一竿竿頭挿紅扇當中畫日者去岸數百歩一少婦盛飾立船首亦擧扇摩令射之義經問誰能命中者衆皆推君君固辞弗聽逐攪轡入海與扇相距四百許歩両軍皆罷戰衆観時海上風波舟揺撼不止扇亦與夕陽相映發目眩不得視據鞍瞑而▢禱少焉徴張目見風稍定丞注矢引滿久而後發正中扇穀斷之扇乃随風瓢揚項之始墜於水兩軍不覺齊聲讙譟軍散頼朝賞君功賜邑於丹信若武備五州其在丹波者曰五賀信濃曰角豆若挾曰東宮武藏曰太田備中曰荏原併舊所食地爲一万八千項後數歳君入都詔拜下野守還至伏見遇疾而卒實文治五年八月八日也殯干即成院歸葬於福原君卒時年三十四無子初隆娶宇都宮朝綱女生一男曰資光及君卒頼朝令資光承後賜偏諱更名頼資拜肥前守於是立祠祭君靈焉毎歳以君卒日奉祀傳數十世有兄弟不相協者伯仍居福原是爲上那須叔居於烏山是爲下那須下那須亦亦▢祠於恩田毎歳以九月十日奉祀敷世伯家絶嗣於是承叔後者併而有之又數十世曰資睛方豊太閤時喪邑更賜嗣子資景五千石嗣曰資重及東照公入江都爲美濃守蚤卒養増山正利弟爲嗣曰資祇資祇立益一万五千石併舊爲二万石得列爲賭候居於鳥山又以弘前公子嗣曰く資徳資徳因事貶爵特賜秩千石爲高家傳教世至王室中興其地皆隷於有司先世時嘗分爲七支號那須七黨今猶在而其臣隷子孫亦數十家傷奕世華冑不熊復如舊時而餘市君祠廟猶儼在愛宕邱上遠近民有事必禱焉且此邱也南倚三面臨鉅野林樾遠抱挹層轡巒登嶂於雲煙漂渺之際最爲地靈於是乎欲益装飾祠廟且立碑表之遺烈并令斯民得沐於澤也使來請銘銘曰く
藤氏之裔邑於那須 相承數世延於東隅 維餘一君大振其烈 蓋世之譽由於一發 誠是奇中万衆傾倒 百歩柳葉古稱其巧 比之於君復距*足道 巧高賞重賜邑實多 子孫相縦以世其家 綿々千載随隆随汚 偉彼祠廟屹在高墟* 維是臣庶膽仰其徳 廼伐山石維銘是勒 垂之無窮以介嘉福
千勝神社之神璽 愛宕神社之神璽
汗馬山解説 千勝神社の証拠の碑 那須與一之碑
那須藤氏其先出… 嘉福で終わっている 昭和30年奉納
鳥居があった 鳥居柱など
福原

千勝神社・諏訪神社

[ちかつ・すわ神社]

栃木県大田原市・福原153

主祭神:猿田彦命?・建御名方命
広報おおたわら2016年7月号に諏訪神社と合祀と書かれている。明治二十五年1892建立の那須與一の石碑はここにはない。430mほど西の愛宕山(汗馬山)の頂上に保存されている。すると,ここの千勝神社は『下野神社沿革誌』記載の千勝神社とは別の社のようだ。
覆屋内左上に與一が扇の的を射る図が描かれている。奉納年は不明。「那須祖霊千勝神社,境内那須與一宗隆公紀念碑」とある。この紀念碑は上記の碑をさすか?
当社のすぐ右手の覆屋には天明七丁未歳1787なんとか念仏供養塔が祀られ,複数の地蔵尊名が刻まれた供養塔がある。
福原

稲積稲荷神社

[いなづみいなり神社]

栃木県大田原市・福原361

主祭神:倉稲魂命
永万元年1165須藤家六代宗資が神田城から烏山の下境稲積城に移った(天仁二年1109資通の築城)。解説板の「乗資」は未解決。城の守護として甲斐の国から城内に勧請。那須烏山市下境1406に稲積神社が現存する。そこから那須資之が福原城に勧請。石鳥居二基,銅鳥居一基。
玄性寺から入る。那須與一之墓の南隣りに鎭座。
玄性寺の與一弓道場
與一弓道場敷地寄付碑 那須氏墓碑
福原

八坂神社

[やさか]

栃木県大田原市・福原329

主祭神:素盞嗚命
箒川右岸。福原と小川を結ぶ285号線沿いの佐藤酒店看板の下に福原郵便局標識があり小路を入っていくと突き当たりに八坂神社。
注連縄の掛け方が独特で,鳥居柱に昇流,降龍のごとく巻きつけてある。これは下記の天満宮の鳥居注連縄も同様である。
詳しいことは分からない。
社殿脇に自然遊歩道の案内板が掲げられており,天満宮まで0.2キロ,永興寺まで0.1キロとある。
本殿
八坂神社 奉鎭八坂神社神璽
本殿扉前に 寄付芳名板だろう
注連縄の端が根元に結んである
天満宮へ0.2キロ
福原

天満宮

[てんまんぐう]

栃木県大田原市・福原329

主祭神:菅原道真公
上記八坂神社を正面に見て左折すると突き当たりに福原郵便局。そこを右折するとすぐに天満宮。
昭和五十五年1980「奉納大宿町」の石柱は鳥居または玉垣奉納記念。
鳥居の注連縄の掛け方は八坂神社と同じ。
年代不明の湯殿山,二十三夜塔,享保年代らしき何とか安楽塔。 詳しいことは分からない。
社殿脇に自然遊歩道の案内板が掲げられており,八坂神社まで0.2キロ,百間堤まで1.2キロとある。
奉納大宿町 独特の注連縄の掛け方
本殿
神庫 右手に石塔四基
天満宮には梅 八坂神社へ0.2キロ
温泉

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・佐久山4211

主祭神:大己貴命・少彦名命
永禄1558~70頃の創建または再建造営。明治三十年1897火災に遭って『下野神社沿革誌』では仮の拝殿で記録されたが,再建なって現在は屋根も銅葺きで立派になった。
一の鳥居の左手の石段を登ると愛宕神社がある。
例祭:10月10日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 佐久山 洗能登
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 佐久山町鎮座 祭主洗氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-11丁
佐久山町大字佐久山鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 祭日陰暦九月十九日 建物本社四尺四方 雨覆二間四方 末社一社 木鳥居一基 石燈籠三基 假拜殿一棟 氏子二百六十一戸 社掌蓮田勇仁仝町大字仝住
木社創立は永録年中にして福原城主四郎久隆の勸請にありて本社拜殿其他建物に至るまて壯厳輪奐たる社なりしも明治三十年中▢徒火を失しために本社除きの外建物悉く灰燼に帰し今僅に仮拜殿のみを存す 境地四百九十五坪平坦の地にして馬塲の長さ一町に餘れり 境内には老杉古櫻ありて花時に滿地雪に埋る〻か如し 西丘山を控へ東には箒川の淸流滾々として日夜音を聞き頗る風色閑雅なり
勝善神
愛宕

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県大田原市・佐久山4215

主祭神:火産霊命
上記温泉神社の隣りの山上に鎭座。拜殿手前右手に草に隠れているのは崩れた石燈籠か。その隣りに昭和九年1934建立の「千年記念碑」。昼尚暗き境内で解読に苦労する。大略は「明治三十六年1903に御神体を取調べたところ一体には天延二甲戌年974,もう一体には天元元年978と刻まれていた。昭和九年が甲戌にあたるところからここに記念碑を建立する。落合銈一郎謹書」。上記温泉神社より高い位置に鎮座することからも当社の方が先に創建されたことが分かる。211坪。
温泉神社を参拝した際には鳥居左手の石段に気付かず完全に見落としてしまった。今回石段を登ってみるとなかなかに雰囲気のある神社。石段を登りきったところに戦勝記念に建立された明治三十九年1906両部鳥居。奥に社殿が見える。本殿は神明流造で正面しか見えないが彫刻が施されている。拝殿左手に朱塗の境内社が祀られているが社号不明。脇に「享保十七年1732奉納御神前」と鮮やかに刻まれた石柱が保存されている。鳥居の柱と推測する。
例祭:7月24日
石段の上に鳥居が見える 逆光
社殿が見える 拝殿
本殿 境内社
享保十七年1732
奉納者名 千年記念碑
なんの部材か?
大きな字で
鳥居から 入口 千年記念碑本文
諏訪

諏訪神社

[すわ神社]

栃木県大田原市・佐久山2043

主祭神:建御名方命
文治三年1187佐久山城主福原四郎久隆が信州より勧請。明治三十年1897焼失。昭和五十七年1982公民館兼社殿を新築。203坪。
公民館の左手から裏に回ると石宮と朱塗の境内社。公民館に接続して本殿覆屋が建てられている。格子の透き間から本殿が見える。大きそうだ。
例祭:旧暦7月28日
諏訪大明神
表通りから 公民館
稲荷

御殿山稲荷神社

[ごてんやまいなり神社]

栃木県大田原市・佐久山4458-2

主祭神:倉稲魂命
文治三年1187佐久山次郎泰隆が築城した際に城内鎮護のために京都伏見より勧請。永禄二年1559領主藤原資邦が再建。那須家の氏神。永禄六年1563に廃城となったころ焼失し,元和元年1615再建。元禄十五年1702から福原資倍が居城とした。明治十年1877台風で倒壊。翌年再建。平成十年1998佐久山在住の藩士の子孫17名が社殿を新築。石鳥居があったが震災で倒壊。60坪。現在は佐久山を見下す御殿山公園になっている。
例祭:2月初午日
新築記念碑の縁起
石鳥居があった
温泉

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・佐久山4249-3

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:六柱神
愛宕神社から南方へ山を越えると水田の先に鳥居が見える。とごにも記録が見つからない。幸い本文の扉が開いていて,「遷宮」と大書された板に大己貴命・少彦名命・六柱神」の文字が見える。「大国主命神璽」「少彦名命神璽」もある。したがって温泉または湯泉神社である。鳥居左手に勝善神。
社殿と大沢コミュニティセンターの間の駐車場に石碑が三基あ。左は下野國那須郡佐久山駅西半里有荒原に始まる「明治二十二年1889なんとか開墾碑」で,中は「▢建▢▢記念」,右手は下野國那須郡佐久山駅西半里に始まる明治三十二年1899?建立の碑。
祭神名が読める
勝善神
三基
大沢コミュニティセンター
大山祇

大山祇神社

[おおやまつみ神社]

栃木県大田原市・佐久山3962

主祭神:大山祇命
正徳元年1711創建。氏子9戸は那須家家臣の末裔。
大山祇神は『日本書紀』神代上第五段の一書第七に登場する。伊弉諾尊が軻遇突智を斬った際に生じた三神の一が「大山祇神」で,他の二神は「高龗」と「雷神」である。岩波,小学館版『日本書紀』の読みはいずれも清音で[おほやまつみのかみ]
『古事記』では風の神,木の神,野の神と同時に生まれた山の神として「大山津見神」の表記で登場する。こちらも読みは[おほやまつみのかみ]
栃木県では珍しい社号で境内社を含めても十社に満たない。しかし大山祇命を祭神とする社は多く,200社を超えるかも知れない。
佐久山の町の東方,境内からすぐ南に箒川が見える。平成一四年石鳥居額に社号が彫られている。鳥居右手前の自然石は推読「寛延三庚午歳1750」庚申供養塔。
鳥居の先の拝殿は側面で,正面は箒川に向いている。格子が大きいので内部がほの見える。自然石は甲子塔で年代読めず。
昭和九年1934旗杭。
境内に松原集落センター。
例祭:10月10日
正面はこちら
本殿 甲子塔
庚申供養塔 旗杭 朱色は箒川の橋
松原集落センター 付近のお宅の社
温泉

温泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・佐久山3454

主祭神:大己貴命・少彦名命
佐久山喜連川線で琵琶池の北,権津川の脇を東に入ってすぐ左手に平成19年石鳥居。石段を上がって草の参道を登って行くと社殿。木製祠が大小二基祀られている。
社号の分かるものがないので付近でお尋ねすると「ゆぜんさま」であることが判明。表記は湯泉神社か温泉神社か不明。鳥居のとなりは消防団分室らしい。
ここから南下して琵琶池となりに藤沢の温泉神社。
 
拝殿内
 
明治三十年?
大神

大神神社

[おおがみ神社]

栃木県大田原市・大神777

主祭神:火産霊命・倉稲魂命 配神:大山祇命・木花開耶姫命・猿田彦命
建久八年1197創建,「白河大明神」と称した。
大正三年1914山神社,秋葉神社,鶏鳥神社,ほか2社を合祀して,大神神社と改称。74坪。
福原八幡宮の西すぐ左手に太子堂があり,脇の坂を上って行くと石段と鳥居が見えてくる。鳥居額に「大神神社」,[おおみわ]と読みたくなるが,地名をとって改称したので[おおがみ]である。
日陰の山に鎭座するので苔むしたいい雰囲気。昭和五十八年1983十月奉納の石鳥居。年代不明の狛犬。大正四年1915石燈籠。昭和四年1929手水石。
朱塗りの立派な本殿。拝殿左手に多数の境内社。ざっと九社。秋葉,稲荷だけ確認できる。
大師堂左手に推定宝永七寅1710と享保十二年1727?太子像。裏手の覆屋に元禄五年1692,二年か六年かもしれない,300年以上前の石像。抱えた蛇のような生物が口から鳥を二羽吐き出している? 道路沿いに石像が20基以上保存されている。
例祭:10月14日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 白河大明神 福原 宝光院
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-11丁
佐久山町大字大神鎭座 村社 白川神社 祭神須藤權守貞信靈 祭日陰暦九月十八日 建物本社四尺四方板葺 鳥居一基 末社五社 氏子三十一戸 社掌同上
本社は建久八年九月十八日の創立にして往古より一村の鎭守神と崇敬あり 社域六十坪古杉亭々として高<聳ひ社寶には古鏡一面を藏す
鳥居が見える
拝殿内 本殿
本殿 額2枚
境内社が並ぶ
秋葉 稲荷
大正四年1915
読めない
参道から太子堂
太子堂左手 太子堂裏手
六?五?二? 石像多数
温泉

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・藤沢328

主祭神:大己貴命・少彦名命
詳しいことは分からない。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-11丁
佐久山町大字藤澤鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 祭日陰暦九月十九日 建物本社二尺五寸奥行三尺板葺 拜殿間口三間奥行二間萱葺 末社二社 氏子二十一戸 社掌齊藤最仝郡湯津上村大字蛭田住
本社創立年月不詳 社境三百坪 高燥の地に古杉蔚々として風色頗る佳なり
温泉

温泉神社

[おんせんorゆぜん神社]

栃木県大田原市・藤沢98-10

主祭神:大己貴命・少彦名命
平成十四年琵琶池氏子一同建立の石宮。石鳥居も同年造立。
以前は山全体多数の杉が生えていたが,きれいさっぱり伐採されて明るくなった。
社号を示すものは何もなく,詳しいことは分からない。
琵琶池から神社方向 琵琶池

 

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