佐野市の神社資料

出流原

涌釜神社

[わくかま神社]

栃木県佐野市・出流原町2123


主祭神:天水分神・国水分神
大同年間806~10の創建と伝わる。もとは人丸神社の山の裏手に鎭座し湧水の井戸があったので涌釜の呼称となった。明治四十四年1911に人丸神社と合併し大正二年1913に涌釜神社を現在地に造営して遷宮。境内地は人丸神社の1848坪が加わって5倍に拡大して2352坪。
例祭:10月第二日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 湧釜大明神 出流原 持明院
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-40丁
赤見村大字出流原小字後山鎭座 村社 涌釜神社 祭神水分命 祭日陰曆九月二十八日 氏子二百二十八戸總代三員 社掌山崎文故同村同大字一一五番地住
土俗の口碑に傳ふ大同年中の勸請なりと 別當職の家再度の火災に罹りたるため惜むへし由緒書の如きも烏有に歸し事蹟傳らず只た後水尾帝の御宇元和八年1622十一月宮殿大破につき再建し其后享保十二年正月再建せしだけは明なり 往古は赤見小中山形寺久保と一村にして涌釜神社を鎭守とせし由古老の口碑に言へ傳へり
 建物 本社間口五尺奥行四尺五寸銅葺 拜殿間口五間奥行二間瓦葺 幣殿間口一間奥行一間半亜丹葺 木華表一基
境内地四百五十七坪 本社は本村の艮方にありて宮殿は南向きなり 社地は東西二十間南北廿四間瀟洒愛すべし 境内の午の方に井泉あり其水は丑寅の方より未申に向つて土中を流る 傳へいふ往古此に初めて泉の湧きしを以て此地を涌釜原郷と稱へ亦た本社をも涌釜神社と稱せしなりと 今ま又た出流原と稱ふるも即ち湧釜の池水土中を流れて自ら字磯池に湧出せしか故に斯く改め稱ふるなりとそ
人丸神社 明治四十四年1911五月桶釜神社と合併
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-41丁
赤見村大字出流原鎭座 無格社 人丸神社 祭神人丸朝臣命 祭日陰曆六月十五日 信徒總代三員二百二十戸 社掌同上
勸請年月は詳ならざれども寛永十九年再建せしことは確なれば創建は夫れより以前なるべし 境内に一の神池あり嘗つて寛永十八年の旱魃に際し田甫亀裂し野に⾭色なし民之を憂へ本社に祈る然るに怪しきかな忽然として磯地に混々たる水湧出し民蘇生の想あり乃ち其恩徳に報ゆるため翌年本社を再建すといふ 其后文化三年十一月再造せり 里民は養水の神と稱して奪敬甚だ篤く今に到るまて此の泉水に依て灌漑の便を蒙る田甫は近村敷百町歩に渉るといふ 以て出流原村の名の偶然ならさるを知るへし 又た舊六月十四日の夜は毎年神官一人にて水下安全の祭り祈禱をなす例なるが其夜に限り髣髴として神靈の現出するを見ると古へより言へ傳へり此祭式今尚存ぜり 建物本社間口五尺五寸奥行五尺小羽葺 拜殿間口四間半奥行二間茅葺 木鳥居一基 玉垣あり
境内地千八百四十八坪樹木の欝蒼せると巖石の巨多なるとは地方神社の境内に其比を見ず殊に杉樫なとに到ては回り一丈(3m)餘のものあり 寄岩怪石劍を植へたる如く峙ち一見脱塵の想あり 本社は南向きにして其後ろに磯池あり深さ六尺餘周園七十三間長方形をなせり池中申酉の方に六尺三間餘の小山+固あり磊々魁偉見るも怖ろしき心地す 其他龍の蟠るか如きもの虎の吼ける如きもの峨々丌立して水崖は千年の⾭苔滑なり 泉水は往昔より涸るヽことなし唯た寛文十八年に春より夏迄涸れしことありしのみ 概ね春の彼岸より水増し秋の彼岸より水減ずといふ 但た旱雨共に水の増減のなきと冬李に到りて冰らさるとは一の奇勝たり 水流は足利郡高橋村に至りて渡良瀬川に入る 嘻山の秀なるものは水を生じ水の靈なるものは傑を生す 知らず出流原頭如何んの傑物を生ぜる 境内に芭蕉翁の發句を刻める碑あり句に云ふ「此あたり目に見遊るもの美な冷し」以て風景の全班を窺ふへし

雷電/三峯神社

[らいでん・みつみね神社]

栃木県佐野市・出流原町114

磯山公園の東に鎭座。となりに磯山弁財天。その西に涌釜神社。

岩峰神社

[いわみね神社]

栃木県佐野市・出流原町1542

佐野ゴルフクラブのコース内。

熊野神社

[くまの神社]

栃木県佐野市・出流原町377


出流原パーキングエリアの脇に鎭座。朱塗の本殿。

熊野神社

[くまの神社]

栃木県佐野市・寺久保町654

主祭神:伊邪奈岐命・伊邪奈美命
藤原秀郷が唐沢山城に勧請した熊野三社を遷座したと伝わる。大治二年1127再建。正中二年1325本社造営。昭和十四年1939の台風で大破するも翌年再建。
例祭:10月第二日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-41丁
赤見村大字寺久保鎭座 村社 熊野神社 祭神伊弉諾命 伊弉冊命 建物本社間口五尺奥行五尺 拜殿間口三間奥行二間 氏子六十九戸 社掌同上
本社創立詳ならす 社域六百三十坪を有す

雷電神社

[らいでん神社]

栃木県佐野市・寺久保町407


主祭神:大雷神 境内社:稲荷神社・愛宕神社
詳細不詳。明治四十二年1909四月,愛宕神社(軻遇突智命),稲荷神社(豊受姫命)を合祀。
例祭:4月第二日曜日

石塚神社

[いしづか神社]

栃木県佐野市・石塚町724


主祭神:天兒屋根命
創立年等不詳,柿本人麻呂靈を祀っていたという。享和元年1801再建,天保九年1838全社殿を改築。
明治五年1872,熊野神社,神明神社,稲荷神社,雷電神社,八坂神社,愛宕神社,諏訪神社を合祀。
例祭:10月第二日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-41丁
赤見村大字石塚字宮内鎭座 村社 石塚神社 祭神天兒屋根命 建物 本社本社間口三尺奥行三尺 拜殿間口二間半奥行一間半 氏子二百八十七戸 社掌同上
本社勸請年月詳ならす 社域六百三十一坪を有す

藤宮神社

[ふじのみや神社]

栃木県佐野市・石塚町502


主祭神:藤原成行
養和元年1181藤原俊綱の墓所として創建。正徳四年1714,天明四年1784,安政五年1858に改修。
例祭:4月第二日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 藤宮大明神 下石塚 吉祥院

熊野神社

[くまの神社]

栃木県佐野市・石塚町1721


主祭神:伊弉諾命・伊弉冊命
創立年不詳。寛保三年1743,延享二年1745,天明四年1784改修。天保十三,十四年1842-43改築。
喜連川藩主煕氏公筆の熊野山大権現額。勝海舟揮毫の額。
例祭:4月第二日曜日 *『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 熊野大権現 上石塚 南方寺

若宮八幡宮

[わかみやはちまんぐう]

栃木県佐野市・石塚町2195

佐野日大サッカー場の北,熊野神社の西に鎭座。詳細不詳。
例祭:?月日


▊旗 川 村 *『下野神社沿革誌』明治三十五年1902五月十日發行 巻ニ-42丁
本村は並木,免鳥及ひ小中の舊三ヶ村を合併して一自治區となせしものにして全村面積五百十餘町歩あり 其地勢平坦にして耕地開け村民多くは農耕を業とし亦木綿織物を產し勤勉の風ありて交際親密なり
道路は一條の縣道並木を通し全村を東西に雨分し其他里道縦横に通し交通の便あり 然して全村の位置に至つては小中は北端に免鳥は中央に並木は南端に在り 東は佐野村に接し西方一帶旗川を隔て足利郡に隣し北は赤見村と土壌相連なれり 此間兩毛線は免鳥並木の中央を東西に貫くを見る
古來の沿革に就ては往時は各村とも佐野家の領地にして后或は幕府代官支配となり或は旗下釆地となり幾多の變遷を經明治維新の后に至り共に日光縣管轄となり明治五年廃藩置縣の際栃木縣に屬し免鳥並木の兩村は同一戸長役塲に小中は別戸長役塲の支配に屬せしか更に町村制實施に當り舊三村を合せて一村と成し旗川村と稱す
本村には村社三社ありて其氏子戸數五百五十餘戸人口三千五百九十餘人あり

二柱神社

[ふたはしら神社]

栃木県佐野市・並木町167


主祭神:高皇産霊神・神皇産霊神
貞享元年1684創建。天明三年1783本殿再建,大平の後藤彫の名工磯辺儀左衛門秀重作で彩色彫刻が施されている。聖天を祀っていたが神仏分離で安楽寺に像を遷し,明治六年1873祭神二神を奉じて聖天宮から二柱神社へ改称。
例祭:4月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 聖天宮 並木 村人
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-43丁
旗川村大字並木字道川鎭座 村社 二柱神社 祭神高皇產靈神 神皇產靈神 建物 本社本社間口一間半奥行一間半 拜殿間口四間奥行二間半 石燈籠二基 氏子七十七戸
本社創立詳ならす 社域五百九十二坪を有す

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県佐野市・免鳥町742


主祭神:天彦火瓊瓊杵尊 境内社:八幡神社・浅間神社
正応年間1288~93の創立。延宝元年1673再建,元禄十五年1702拝殿再建。
明治二十六年1893免鳥町字宮から現在地に遷宮。
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 正一位 星宮大明神 免鳥 久松寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-43丁
旗川村大字免鳥字宮鎭座 村社 星宮神社 祭神磐裂命 根裂命 建物 本社間口四尺五寸奥行一間半 拜殿間口三間半奥行二間 幣殿間口一間奥行一間半 末社三社 氏子七十七戸
本社創立年月詳ならす 社域五百一坪あり

人丸神社

[ひとまる神社]

栃木県佐野市・小中町1062


主祭神:柿本人麻呂公 境内社:為朝神社
例祭:4月15日 10月第二日曜日
「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか 人麻呂」
元慶元年877高角山[たかつのやま]より勧請して創建。
「志もつけの安蘇野の原のあさあけにもやかけわたるつつらくさかな」の一首が神庫の火災で焼失というのは人麻呂真筆があったのか?
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 正一位 人丸大明神 小中 林岩見
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-43丁
旗川村大字小中鎭座 村社 人丸神社 祭神柿本人麿靈
建物 本社間口一間半奥行一間 拜殿間口四間奥行二間半 幣殿間口一間半奥行二間 神樂殿間口二間半奥行三間 神輿庫間口一間半奥行二間 末社十社 氏子百七十二戸 社掌林敬明
本社は元慶元年877三月里民信仰により勸請し產土神と崇信す 社域七百十二坪を有す

吾妻村は『下野神社沿革誌』足利郡に記録されたが昭和三十三年1958佐野市へ編入された

▊吾 妻 村 『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻一-28,29丁
本村は村上上羽田下羽田及ひ高橋の舊四村を合せ一の自治區となせしものにして其幅員東西一里十町南北三十町あり 地勢平坦にして東は安蘇郡に接し南北西の三面は渡良瀬川及ひ旗川の兩川經流せり 村民は概して温厚の風ありて農を以て業とす
古來の沿革に付ては各旗下の釆地に屬し所領を異にせり 明治維新后栃木縣に屬し第四大區六小區に編入せられ各村役塲を異にし明治十六年に至り一戸長役塲となし町村制實施に當り相合して一村となれり 本村には村社四社ありて其氏子戸數五百二十余戸人口三千三百九十余人あり

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県佐野市・上羽田町684


主祭神:譽田別命
天慶五年942藤原秀郷が甲冑(兵器とも)を当地に埋めて塚を設け社殿を造営。元禄八年1695道場塚から現在地に遷宮。
樹齢600年を超える大ケヤキ。
例祭:4月15に近い日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
足利郡 八幡宮 羽田 円照寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻一-29丁
吾妻村大字上羽田錢座 村社 八幡宮 祭神譽田別命 祭日陰曆二月八月十五日 建物本社一間四方銅瓦葺 拜殿間口四間奥行二間半 幣殿間口一間四尺奥行二間 神樂殿間口二間奥行三間 石華表一基 末社五社 郷社石標 伊勢參宮碑石永井先生の碑 氏子百二十二戸 社掌永井斎仝村大字仝七番住
社傳に曰く承平六年936田原藤太秀郷朝敵將門を討すへきの命を承け當郷まて出馬せしか名にし負強敵なれはとて宇佐八幡宮を奉し戰勝を新る 其の擁護により遂に賊を平けて唐澤城を築きたり 天慶五年942當境に兵器を埋め塚を造りて宮殿を建て以て裏鬼門鎭護となす即ち今本社の後ろ小高き所道塲塚といひて元そこに鎭座せしを后元録八年宮殿再建の際今の慮へ遷座したるものにして刀劍の類朽ち錆ひて寸断となれるもの地底より發見せしとあり又再建のことは本殿の棟札に明記せられたれは正しき記録なるへし 其頃は和氣の王子といへる人神子として宮仕なし和氣氏歸京の後は奉仕するもの暫く中絶して永和年間に到り真言宗圓照寺別當職を奉し佐野家にて代々修繕を加へ崇敬の社なり 佐野家廢絶后は近村七郷の鎭守と崇められ永禄十年八月下羽田村に分祀せられたり 后明治五年郷社に列せらる 仝十年八月本社に編入せらる 他に委しき事蹟もあるへけれと別當寺數度の火災にて舊記等も燒失せる故惜むらくは詳ならす 明泊二年永井氏神職となりてより仝十九年に到り仝氏管理者となり川田道次郎大關兼三郎川村淸二郎⾭木兵五郎山本淸三郎川村源十郎川田林平川村熊二郎川村甚藏の諸氏再建委員となり拜殿を再建す又た仝二十六年中より仝二十七年四月に到る迄永井氏管理者となり川田道二郎仝助太郎山本淸三郎川村甚藏大關充太郎⾭木安五郎川村熊二郎川村彌三郎川村淸作古橋善二郎川田林平松本信太郎の諸氏再建委員となり本社再建の功を竣ふ 造營の費用は氏子一同の據金より出るといへ永井氏多年積裁の功績によるものにして實に巨額なりとそ且永井氏は社頭永續費金をも貯蓄する等凡てに努めたれは氏子又協和して費を投するを吝ます 殊に再建成功の暁に於て氏子一同永井氏の盡力に感し永井氏へ齊服一領木杯壹對銀盃一個を拜殿再建委員へは石盃壹個本社再建委員へは木盃一個宛を贈くり其労を謝せしとそ記すたに快よき美事といふへし 社域千四十六坪にして古杉老樹雲を凌いて千年の縁りを示めし社頭徐ろに風生して淒氣自ら身に逼り神々しきの念に堪へさるものは本社の境内なり 中に凸然と峙つものは道塲塚の舊迹にして今淺間神社を鎭座す 此處尤も跳望に佳なり一たひ眸を放ては足利安蘇兩郡の沃野に炊煙の▢ひくを見状して⾭嵐の吟嘯を聞くへし

愛宕神社

[あたご]

栃木県佐野市・上羽田町440


主祭神:火産霊命

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県佐野市・村上町880


主祭神:瓊瓊杵命
源頼朝の時代の創建。明治二十八年1895拝殿再建。明治三十四年1901再築して遷宮。
4月15日,10月例祭日,12月31日に神楽奉納。
例祭:10月15に近い日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
足利郡 星宮大明神 村上 泉竜寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻一-30丁
吾妻村大字村上鎭座 村社 星宮神社 祭神天津彥火瑣々杵命 祭日三月九月十五日 建物本社間口六尺奥行五尺銅葺 拜殿間口三間奥行二間 神樂殿一棟 雜舎一棟 華表一基 氏子百二十戸總代四員 社掌亀田源之助仝村大字仝八十七番住
社傳に曰く本社は源賴朝の時代當地鎭護のため勸請せしものにて元禄十五年1702地頭牧野傳藏より二反六畝十五歩祭田免として除地を寄附せらる 仝村眞言宗仙殿院にて代々別當職を奉し〻か明治二年十二月龜田多門神祇官より神主職に補せられ明治二十八年十月民子一同の力によりて拜殿を再建せられたり 本社は仝三十四年四月の再築にして仝年十月二十六日を以て遷宮の盛式を擧けらる 就中由緒ありけるは毎年陰曆十月十日には氏子擧つて團子を饌へ戸毎に客を招て之を饗する例ありて例祭に比して却て盛むなり 或年之を廢せしに神位に適はさるけん災害ありて此例再ひ行はれり 社域三百三十余坪大字の西端に在り前に茫漠たる田甫を控へ一眸數十里の間にあり後に人家を負ひ境内には古杉老槻の二丈に餘れる大木中空に聾ひて徐ろに千年の昔を想はる夏の夕春の曙淸氣野に滿つるの時杖を曳かは心自ら爽やかならん

八幡神社

[はちまん神社]

栃木県佐野市・下羽田町1085


主祭神:譽田別命
永禄十年1567創建。
例祭:10月15日に近い日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻一-30丁
吾妻村大字下羽田鎭座 村社 八幡宮 祭神譽田別命 建物本社三尺四方 拜殿間口三間奥行二間 雨覆二間四方 幣殿九尺四方 末社一社 氏子百五戸 社掌永井齊住所前仝
本社は永禄十年1567八月上羽田村八幡宮を遷座せし社にして社域百八十坪を有す

雀神社

[すずめ神社]

栃木県佐野市・高橋町2041

主祭神:豊城入彦命
嘉暦三年1328渡良瀬川の氾濫を鎮めるために創建。「シズメる」が「スズメ」になったていう説があるがさて。
例祭:10月15日に近い日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
足利郡 正一位 雀宮大明神 高橋 荒井和泉
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻一-30丁
吾妻村大字高橋鎭座 村社 雀神社 祭神豊城入彥命 建物本本社四尺四方 拜殿間口三間奥行二間半 幣殿間口一間二尺奥行一間四尺 末社六社 社掌新井正善仝所住
本社は嘉曆三1328三年六月の創建にして元録十二年三月十六日を以て神位宜旨正一位を授けらる 社域六百八十五坪平坦の地にして前に渡良瀬川の淸流滾々として晝夜を遏めす 境内には老杉蓊蔚にして風景佳なり

御嶽神社

[みたけ神社]

栃木県佐野市・高橋町2041


主祭神:蔵王権現?
境内に高橋町荒居公民館。

 

 神社目次へ 
 ページトップ