佐野市の神社資料
一瓶塚稲荷神社
[いっぺいづかいなり神社]
栃木県佐野市・田沼町1404
主祭神:豊受姫命 配神:久久能智命・猿田彦命・草野姫命・大宮能売命 境内社:厳島神社・西宮大神宮・太子神社ほか多数
大栗の関東五社稲荷神社社伝に「文治二年五月田沼に分靈を遷坐せしより小野寺まて渾て十ヶ所は皆本社より遷祀」とあり,当社もその一で文治二年1186創建。信奉者がそれぞれ瓶に土を入れて塚を築いて社殿を造営したので「一瓶塚稲荷」と称した。拝殿の「佐野総社正一位一瓶塚稲荷神社」額は寛政十二年1800神祇総管領白川資延の揮毫になるもの。
昭和四十年1965境内を整備し建物すべてを新築した。
狩野探幽十二天尊図掛軸12本を所蔵する。
例祭:11月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 稲荷大明神 田沼 能満寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-15丁
田沼町大字田沼稻荷久保鎭座 郷社 稻荷神社 祭神豊受姫命 草野姫命 猿田彥命 大宮能賣命 久々能智命 祭日陰曆二月初午日 建物本社間口一間二尺奥行一間 拜殿間口四間四尺奥行二間三尺 幣殿總樫木造 神樂殿間口七間奥行三間 神輿庫三間四方 水屋間口一間奥行五尺五寸 末社十一社 ⾭銅華表一基 紫銅燈籠一基 棧敷間口十二間奥行三間 氏子二千七十八戸 社司安蘇谷正吉仝町大字仝住
本社創立は文治二年1186乙已五月にして佐野莊司讃岐守/園田成實の男/崇敬により同郡大栗稻荷山より遷坐し佐野惣社一瓶塚稻荷大明神を勸請せしか濫觴にして後叉富士左京亮房行再建せり 其他由緒ありしも恨むらくは天保五年正月中本社祝融の災に罹り舊記録灰儘に歸せしより事績の審かなるを攷へからす只社傳の儘を記すのみ 社域九百三十坪高丘の地にありて社殿宏壮輪奐として石の瑞籬四方に繞らし⾭銅の大華表は佐野豊前守及ひ榊原安藝守の奉納にして佐野惣社一瓶塚正一位稻荷神社の扁額は日本神祇惣管領白川伯資延王の揮毫せしものにして古色靄然掬すへし 其外數十の大額拜殿に奉納あり 境内には老櫻古樹翠滴し風色嫣然たり 明治五年十一月郷社に定めらる
主祭神:賀茂別雷命 配神:天孫命・建角見命・玉依姫命 境内社:産泰神社・機姫神社・八坂神社・寒沢山神社・太守神社
天智天皇八年669創建と伝わる古社。村落から15丁約1.5km離れた菊澤山半腹に鎮座し,參拜に苦労するので元文元年1736現在地に遥拝所を建築した。明治四十二年1909無格社八社を合祀して,翌年本殿を移転し遥拝所を本社とした。『下野神社沿革誌』は移転前までの記述である。
例祭:4月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 正一位 雷大権現 上多田 毛利越後
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-16丁
田沼町大字多田小字菊澤山鎭座 村社 賀茂別雷神社 祭紳天孫命・建角見命・賀茂別雷 玉依姫命 祭日陰曆四月十五日五月五日 兼務社掌葛生町郷社八坂神社社司毛利眞守
社傳に曰く天智天皇の八年669九月始めて山城國上賀茂大神を此地に分祀し加茂別雷神と稱へたり 其後朱雀天皇の天慶八年945四月一日下毛野國押領使従四位下藤原朝臣秀郷逆賊平將門追討の命を奉せし時此社に祈りて速かに鎭定の功を奏せしを以て本社を再造す 近郷の民遂に鎭守と崇めて信仰甚だ篤し 元禄六年1693八月氏子及び篤志の輩相圖り力を戮せて再建を企て遂に之を成す現今の社殿即ち之なり 明治五年栃木縣廳より郷社に定格せられしが同十年七月區畫改正に際して村社に定めらる 元和二年領主米倉丹後守より除地として山林九反壷畝廿歩を寄附せられしが明治五年上地せらる 叉た享保十四年に幕府御用筆細井治郎太夫廣澤勝知の筆になれる神號題額一面奉納せしものあり古色靄然掬すべし 此等を見て以て本社が如何に當時に於て世の推尊を受けしことを察するに餘あらん
建物本社間口四尺五寸奥行五尺五寸 拜殿間口三間奥行九尺 神樂殿間口四間奥行二間文化十一年1814三月新築 遥拜所間口四間奥行二間半元文五年1740新築 本社は村落を隔る十五丁の遠隔にして且つ山路險悪なるを以て特に遥拝所を村内字宮内に建て祭日を除くの外參拝者の便に供す 石華表一基 鐵水鉢壼對 手洗石一基 石燈籠二基 末社九社 寳物小劍長さ九尺 水晶玉亘り一寸三分
社域二千七百坪餘本社は本村を去る十五丁柴田山に連接せる菊澤山の半腹巽に向ひて大巖石の上に屹立せり 前に寒澤山を控へ菊澤川を帶び頗る山水の勝地たり 仰けば老松古杉枝を參へて神威の高きを示めし伏しては碧崖數千仞神徳の深きを見はす 殊に勝れたるは周圍四尺餘りの榊數本及び神木と稱ふる一丈二尺程の杉にして傲直森嚴雲を衝くの概あり 又た珍かなるは社地の邊りより一面に菊の生ひ繁りたることにして花の盛りの錦天繍地に淵明をして之を見せしめなばそも又た何とか言はん 故に里民は本社を稱して菊澤の社と呼び此菊を稱して雷電菊と云ふ 又た以て菊澤川菊澤山の稱が共に偶然にあらざるを知るべし 菊澤川の源は此山の半腹に發して本村を過ぎて堀米町に到る頃ほひは良や急流となる 水質淸洌重もに方言「コロヒキ」と稱する小魚を產す此れ是川の名產なり 鮒,鱒,鰻等叉た之に次けり 呼社といひ花といひ山といひ川といひ菊に因みて芳しきは神の威徳の千代八千代匂ふためしと思はれていとめてたくも又尊とし
御榊山神社
[みさかきやま神社]
栃木県佐野市・多田町3004
主祭神:市杵嶋姫命 配神:天児屋根命 境内社:根本山神社・天満宮
延長六年928藤原秀郷が創建。
例祭:10月第二日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-16丁
田沼町大字上多田鎭座 村社 御榊山神社 祭神市杵島姫命 祭日十月十三日 氏子百二十一戸總代三員 兼務社掌同上
社傳に曰く延長六年下毛野國押領使根古屋唐澤の城主田原藤太秀郷故ありて安藝國廣島に鎭座ある嚴島神社の御分靈を遷したるに創り其後宮殿破壊に及ひしが宝徳元年1449佐野某なる者修繕を營みしより代々同家に於て營繕し來りし處遂に同家も断絶したるを以て村内一同の保護となしたり 享保元年二月を以て正一位の神階を賜はり庶民の尊崇大に篤かりき 明治五年栃木縣令を以て村社に編定せらる
建物本社間口三尺一寸奥行四尺五寸杉皮葺 拜殿間口二間奥行二間三尺 木鳥居一基
境内地千六百二十坪本社は葛生里道に接し但だ數丁の馬塲を入るのみ 東は田甫を隔て佐野鐵線に媒煙の揚るを望むべく南は本社の正面にして空闊なる田畝の洋々たる間に人家の點綴するを見るべし 北は山岳蜿蜒として連り稍東部に秋山川の奔れるを望む 山紫水明眺望の佳なるのみならず境内には古松老杉鬱蒼して翠滴らんとするか如き 一度是境に遊はば心氣自ら洗ふを覺へん
根古屋神社
[ねごや神社]
栃木県佐野市・栃本町2856
主祭神:天児屋根命・天太玉命
承平元年931藤原秀郷が西方山頂に創建,飛来矢[ひらいし]神社と称した。貞享三年1686現在地に遷宮。元禄十五年1702飛来矢大権現と称す。明治二年1869飛来矢大明神と改称する。これは維新の神仏分離令で権現はだめだが明神は規定されなかったことによる。大多数は忖度して明神もやめて神社号にしたので,当社も遅ればせながら明治五年1872に根古屋神社と改称する。
関連社として埼玉の羽生市上村君191に飛来矢神社が鎮座する。
例祭:4月29日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 正一位 避来矢大権現 柿本→杤本 天下谷出雲
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-17丁
田沼町大字栃本字六通に鎭座 村社 根古屋神社 祭神天兒屋根命 天太玉命 祭日四月廿日 氏子三百六十餘戸 社掌天下谷政重仝町大字仝一三二番地住
建物本社間口七尺奥行九尺銅葺 幣殿間口七尺奥行二間銅葺 拜殿間口三間奥行二間瓦葺 神樂殿間口二間奥行二間瓦葺 神奥庫間口九尺奥行九尺瓦葺 社寶古鏡一面享保十七年1732十一月安澤淸平奉納 鉾二本寛保四年1744二月伊勢屋彦兵衛仝彦八納む 神刀一口宝暦三年1753九月奉納者氏子 神鏡臺明治八年1875四月奉納者信徒 鰐口一個宝暦二年1752三月奉納横山清次郎外二名
社傳に曰く承平元年931八月藤原秀郷の創建にして春日大神と稱し田原氏世代崇敬の社なり 天慶三年940四月本社へ鎧一領を奉納して神寶とす[藤原秀郷略傳に曰く天慶二年939平將門追討の時此鎧を着して征伐しけるに敵の射る矢避けて身躯に當る事なし故に號けて避來矢の鎧と云ふ]此鎧を本社に奉納せしにより避來矢神社と稱す 治承四年四月藤原秀郷十世の孫足利叉太郎忠綱か源三位賴政と宇治川の戰争に此鎧を拜領し奮戰しけるに身體大に疲勞せるにより陣中に此鎧を脱き捨て尚も劇戰せり 然るに彼の鎧敵人の目には只平たき石に見へしにより此より平石の鎧と稱す 後此鎧を本社へ納めたり 又夫より平石權現と改稱す 貞享三年1686正月十九日根古屋廢城の際栃本村の今の社地に遷座し惣鎭守神となる/根古屋城趾元鎭座せる近傍を今に飛來矢曲輪云云/と享保十二年二月十七日を以て神位宗源宣旨を賜はり正一位を授けらる 故に正一位避來矢大權現と稱す 明治二年權現の稱號を止めて大明神と改む 同五年十一月を以て大明神の稱號を止められて根古屋神社と改稱し本縣第三十九區の郷社に列せらる 同十年七月行政區畫改正のため村社に列せらる 現今の建物は貞享三年正月の建立にして社殿には二重の玉垣を繞らし石の華表は寛政二年二月従五位下兵庫頭佐野義行従五位下藤原朝臣右兵衛尉茂承の奉納にあり 又神號の扁額には豊岡三位大藏郷并に秋嚴の揮毫せしもの二面あり 其他銅又は石の燈籠,水磐等に至るまて規摸宏壯美巧を盡し一大壯觀なり 社境廣寛にして古松老杉蔚々蒼々として社殿を繚繞し淸洒にして東に秋山川の淸流に望み社域六百五十一坪にして神寂びて古致に富み人をして覺へず襟を正しくして敬せしむ 社有財產五十五圓餘の利子を以て社殿修繕費に充つ不足あれば氏子の負擔とす 毎歳四月二十日を以祭典を行ふ
田原八幡宮
[たわらはちまんぐう]
栃木県佐野市・吉水町272-12
目の前に「藤原秀郷公墳墓」
榊神社
[さかき神社]
栃木県佐野市・吉水町1005
主祭神:保食神 建御名方命・市杵嶋姫命・譽田別命・日本武命・木花咲耶姫命・倉稲魂命 愛宕神社
むかしむかし字大明神の白鳥神社の境内社?が現在地に独立したらしい。白鳥は不明。
宝永三年1706本殿再建。延享二年1745石鳥居。安永九年1780拝殿新築。文化六年1809幣殿新築,拝殿改修。平成12年すべての社殿の屋根を改修。
例祭:10月第四日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 榊本大明神 吉水 慶安寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-18丁
田沼町大字吉水字諏訪鎭座 村社 榊神社 祭神保食命 建物 本社間口二間奥行二間 拜殿間口四間奥行三間 末社二社 氏子百七十戸 社掌安蘇谷正吉
本社創立詳ならす 社域六百廿六坪を有す
天満宮
[てんまんぐう]
栃木県佐野市・新吉水町395
主祭神:菅原道真公 配神:譽田別命・倉稲魂命 境内社:機姫神社(天棚機姫命)
詳細不詳。大正七年1918田原八幡宮を合祀。
例祭:10月25日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-18丁
田沼町大字新吉水字天神鎭座 村社 天満宮 祭神菅原道眞靈 建物本社間口二尺五寸奥行二尺五寸 拜殿間口二間奥行一間半 末社一社 氏子六十八戸 社掌同上
本社勸請年月詳ならす 社域二百三十七坪にして衆庶信仰の社なり
主祭神:別雷命・天児屋根命・菅原道真公 境内社:神明宮・厳島神社・岩倉神社(岩倉大神)
大同二年807創建の古社。293号沿いの現社殿より北に2キロの菊水山に鎭座した。岩倉神社の奥になるのだろうか。昭和九年1934遥拝殿が建てられる。昭和二十五年1950本殿を菊水山から遥拝殿のところに遷宮する大事業を開始し昭和五十四年1979に正遷座祭を執行する。『下野神社沿革誌』は遷宮前までの記録である。
例祭:5月5日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 雷大権現 山根前 八下田対馬
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-18丁
田沼町大字山越鎭座 村社 加茂別雷神社 祭神加茂別雷命 天兒屋根命 菅原道眞朝臣 建物本社間口四尺奥行四尺 幣殿間口一間奥行一間 拜殿間口三間半奥行一間半 神輿庫間口一間半奥行二間 神樂殿間口二間半奥行二間半 石燈籠二基 末社三社 氏子六十九戸 社掌八下田眞澄
本社創立は大同二年807五月五日にして山城國上加茂皇大神を奉遷したるものにして往古は加茂別雷大權現と稱す 後菅原道眞の靈を合祀す 抑此菅原公の神體は金像にして田原藤太秀郷の守神として崇信し平将門誅伐の時躬自ら携帶せるものなりと 其子千常本社に納めて合祀すと云ふ 本社の裏に小池ありて此水を菊水と云ひ潺々と湧出し此下流菊澤川と稱し村落の灌漑に供す 故に本社を菊澤神社加茂別雷大權現と改稱すヘき旨嘉永四年1851五月神祇管領長上より宣命ありしを明治維新の後加茂別雷神社と改稱し村社に列せらる 社域千五百三十二坪字明菊山の半腹にあり 境内には山菊ありて五月節より隕霜の頃まて咲き滿ちて頗る美觀なり里民此菊を稱して雷菊と云ふ
下宮神社
[しもみや神社]
栃木県佐野市・山越町279
賀茂別雷神の下宮? 詳細不詳。北東に愛宕神社。
愛宕神社
[あたご神社]
栃木県佐野市・山越町1674
上は運動場南,下は愛宕山公園北。
岩倉神社
[いわくら神社]
栃木県佐野市・山越町583
主祭神:藤原家綱公
役の溜[えんのため]の西に鎭座。
天承元年1131頃に亡くなった家綱の廟所として,さらに奥にあった明菊山加茂別雷大明神の脇の岩窟に岩倉大権現を創立。加茂別雷が昭和五十四年1979山越町599に移転するにともない現在地に遷宮。
鹿島神社
[神社]
栃木県佐野市・戸奈良町2008
主祭神:武甕槌命,経津主神,天児屋根命
配神:高龗神[たかおかみのかみ],大山祇命,大日孁貴命,稲倉魂命,素戔嗚尊,誉田別尊,伊邪那美命,柿本人丸朝臣命
境内社に白山姫命の白山神社,石井兼孝神霊の兼孝神社,報国神社
正治元年1199に戸奈良五郎宗綱が常陸の国鹿島神宮より勧請。三床山の麓に奉祭された。
佐野家が尊崇し,衰退して村の鎮守となる。天保二年1831火災に遭い天保十年1839再建。明治五年に村社。
明治42年2月に戸奈良1729にあった「高龗神」を祭神とする無各社の「八龍神社」を合祀。
その後も同年6月に八坂,八幡宮,神明宮,稲荷神社,人丸神社,三王神社,白山神社を合祀している。
本社は人里から離れ,参拝に不便であったため,昭和27年に遥拝殿を建立。
【遥拝殿】
葛生の町を後にして県道66号線を北上する。ゴールド佐野CCの先を右に入るとすぐに「村社鹿嶋神社」(大正14年1月)の石柱。
朱色の木製灯篭が並び立つ,とても美しい神社。手入れも行き届いている。
社柱のうしろに石塔が二基。大きい方は昭和28年4月の「遥拝殿新築記念」碑。社の由来が細字でびっしり刻んである。
その隣りは「戸奈良共有地」の碑。田畑山林を神社のための村の共有地に名義変更した記録である。昭和29年。
このあたりは宇都宮からはかなり高地になるので,4月20日でも神楽殿脇に桜が満開。社の西には田が広がる。
拝殿内の額には「鹿嶋大神宮」の文字。拝殿右手に境内社2社。
左手は「報国神社」。鳥居柱には「明治三十九年建之」と「昭和四十一年十一月移轉建之」
右手は「包孝霊社」。「包孝祠創建之碑」弘化四年1847。
「弘化四年歳x丁未秋八月」1847の手水石。
清掃をなさっている方にお聞きすると,ずっと奥の方に本殿があるとのこと。ここは遥拝殿の方。
【本殿】
車で入っていくと,なるほど,かなり離れた山の方に神社の杜らしき古木が見えてくる。
ここも草取りの方がいらして,手入れが行き届いている。すっきりと気持ちのいい神社だ。
「大正四年」の旗杭。「嘉永二年歳次己酉春二月上澣建」1849の石燈籠。
樫?と杉の巨木の間に「弘化五年龍集戊申春三月吉」1848の神明鳥居。額文字は「正一位鹿嶋大明神」
右手に文久元酉年1861の「猿田彦大神」石塔。
昭和五年三月の狛犬は絶品。足が細いわけでも,頭が小さいわけでもなく,全体が細みに見える造形。見間違いでなければ,左右とも「阿」
さらに進むと「嘉永紀元戊申九月」1848の手水石。
「嘉永二酉年年三月吉日」1849の石燈籠。
ここから石垣が組まれて正面に朱塗りの本殿。背後に深い森が広がる。
右手に「正徳四年甲午二月」1714の手水石。これは古い。
「奉納御寶前 明和六己丑年」1769の石燈籠。
「文化六己巳年五月吉日」1809の石燈籠。
慶應元年1865の石塔。
左手の少し離れたところに石祠の境内社。これが白山神社だろうか。
昭和8年の石のベンチなどが残っている。この神社の文字は300年前のものでもはっきり読める。石の質にもよるのだろうが,長く村の方に尊崇されて清められてきたのではないかと思う。 鹿嶋のシマの字形は『栃木県神社誌』では新旧とも「島」だが,現地では「嶋」で統一されている。
本殿:明神流造亜鉛葺 幣殿:瓦葺 拝殿:瓦葺
例祭=4月20日に近い日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 正一位 鹿島大明神 戸奈良 川田主計
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-19丁
田沼町大字戸奈良字鹿島鎭座 村社 鹿島神社 祭紳武甕槌命 建物本社間口三間奥行五間 拜殿間口二間奥行三間 幣殿間口一間半奥行一間半 神樂殿間口二間奥行三間 氏子二百六十五戸 社掌川田源治
本社創立は正治元年1199二月五日にして常州鹿島神宮を奉遜遷したるものなり 社域九百五十坪を有す
熊野神社
[くまの神社]
栃木県佐野市・戸奈良町400
旗川緑地公園の南,旗川左岸に鎭座。旗川対岸に八坂神社。
人丸神社
[ひとまる神社]
栃木県佐野市・戸奈良町481
主祭神:柿本人麻呂朝臣
旗川緑地公園と北関東自動車道の間に鎭座。
八坂神社
[やさか神社]
栃木県佐野市・戸奈良町776
主祭神:素盞嗚命
旗川緑地野球場の西。旗川対岸に熊野神社。
浅間神社
[あさま神社]
栃木県佐野市・戸奈良町823
主祭神:木花咲耶姫命
旗川緑地公園の北に鎭座。
道了宮
[どうりょうぐう]
栃木県佐野市・戸奈良町962
「ご神体は天狗です」と拜殿左の案内板に。
階段の旗に「南無道了大薩埵」とある。金剛薩埵[こんごうさった]の[さった]なので,ありがたい字。
種徳院の裏に鎭座。
寛政四年1792芭蕉句碑がある。
「鐘つかぬ里は何かと春の暮」
天満宮
[てんまんぐう]
栃木県佐野市・小見町672 おみ
主祭神:菅原道真朝臣命 境内社:日光神社・神明宮・日光東照宮
創建等不詳。普門寺境内に鎭座したが寛文七年1667廃寺になるにともない真勝院境内に遷宮。明治五年1872日光神社境内に移転,日光神社を境内社とする。
例祭:10月第四日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
安蘇郡 日光三社大権現 小見 泉明院
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻ニ-19丁
田沼町大字小見字飯玉鎭座 村社 天満宮 祭神菅原道眞靈 本社間口四尺奥行三尺五寸 拜殿間口三間奥行二間 末社六社 社百三十二戸 社掌安蘇谷正吉
本社創立詳ならず 社域二百九十坪民有第二種にあり
富士浅間宮
[ふじせんげんぐう]
栃木県佐野市・田沼町776-7
主祭神:木花開耶姫命
詳細不詳。富士塚,茅の輪を備える。千木つきの立派な社殿。
境内社に白山神社,薬師神社/八幡山出世稲荷神社
天津戸隠神社
[あまつとがくし神社]
栃木県佐野市・田沼町1325
田沼元宿で奉祭する。
例祭:1月9日より前の日曜日
▊田 沼 町
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902五月十日發行 巻ニ-15丁
本町は田沼,多田,栃本,吉水,小見,新吉水,山越,戸奈良の舊一宿七村を合し一の自治區となせしものにして田沼は各地の中心にして山越,多田は東北に戸奈良は西北に栃本,吉水,新吉水の各村は南方に散在し各々田沼に向て集聚するの觀あり 町民は多く農商工業に従事精勵し奢移の風なく風俗敦厚にして各村の交際相和す 道路は所謂四通八逹の要衝を占め幾線の縣道は前後左右に通し以て佐野地方に葛生に或は新合飛駒の各村を經て上野に逹すへし 佐野鐵道停車塲ありて陸道水運兩つなから便ならさるはなし 故に夫の產業の着々發逹し郡内有敷の產物たるも寔に起因する所なり 秋山川は町の東方を流れ旗川は西方を流れて南下し幾多の用水路を開かれ各地の灌漑便を共にせり
往古の浩革に就ては共に佐野氏の領する所にして其子孫相承け之を領せり 唐澤山城趾は此地にありて始め藤原秀郷の城きし城壁にして今其英靈を祀り有名なる神社たるは世人の知る所にして其子孫連綿として雄を稱せるも故あるなり 後佐野信吉に至り故ありて佐野に移れりと云ふ 明治維新の後栃木縣に屬し戸長役塲を置かれ次て町村制實施に當り合併して一町と成せり
本町には名高き一瓶塚郷社稻荷神社及ひ村社八社ありて其氏子戸數一千六百三十餘戸人ロ一萬一千二百餘人の多きを有せり