上記『下野神社沿革誌』は式内社には触れていない。半世紀後の『下野国誌』嘉永元年1848脱稿,嘉永三年1850刊行では式内社説を紹介している。
▉巻三-十一 都賀郡三座 並小 大神社(ルビ:オホミワノヤシロ)
鎮座詳ならず,今都賀郡國府の惣社明神の,相殿に祀りてあり,一説に同郡太平山に鎮まりいますぞ,大神社なるを云,其ハ下の太平權現乃条にいふべし
▉巻三-三十一 太平大權現
都賀郡太平山の半腹にたてり,別當連祥院般若教寺とも云,天台宗の大寺なり,傳記に云,當山は人皇五十三代淳和天皇の勅願所にて,慈覺大師の草創なり,神躰は,三光天子にて,本地虚空蔵菩薩なり,中興開山贈僧正亮守と申ハ,觀應(北朝)二年1351常陸國黒子東叡山に移轉して,彼等の中興開基なりとあり,當山三光神社の額ハ,後小松天皇の宸翰にして,中興三世良海僧都の時,明徳三年1392壬申七月,比叡山竹内御門跡覺如法親王の執奏なり,則チ御門跡よりの▢宸添翰に,長沼駿河守殿と記したり,是ハそのかみ皆川の領主長沼駿河守藤原宗恒ときこえし人なり,下の古城部の,長沼系圖の条に委しくあり
和漢三才圖會に,太平大權現祭神佐野源左衛門常世靈云々,常世事ハ嘗テ不載之者何乎,按ニ神名帳ニ都賀ノ郡ニ有リ大神社是乎,と記したり,常世が靈と云よしハ,觀世太夫が所蔵の謡曲本の鉢ノ木の注に,常世が靈ハ下野國太平權現と祝ひ祭るなりと,あるによりしなるべけれども是ハもとより偽作なれば論にもおよばず,常世の事ハ下の佐野系圖の条に云べし,さて當社の社務青木對馬が家記に,寶暦九年1759神社御取調の時,太平山舊号大神社,祭神天孫尊,相殿天照太神,豊受太神と,書上たるよし記し置たり,然らバもとより大神社なるべし,大神社なれバ祭神ハ大物主ノ神なること,上の大神社の条にいふが如し,守弘按に,勅額の面に,三光神社とあるこそ,上の大神社の明證なれ,そハまづ浮屠者ハ,大三輪の社を,三光神社と唱ふ,その所以ハ三輪ハ三和とも書て,三和と三光と,字音の通ふまゝに三光神社とし,止觀六之一に,和光同塵ハ結縁ノ之始,八相成道ハ,以テ論ス其終ヲ云々,また老子に和シテ其光ヲ同クス其塵ヲ云々,などとあるを思ひよせ,日月星辰の三光をも渾合して,つひに三和ハ,三光の義とし,鳥居にも両脇に,袖をつけて,三所を竇る様になしたるを,三和流の鳥居と呼からに,三輪氏の人ハ,そを則チ家の紋にさへ用ふるなり,されバ此山も往古ハ,大三和山と唱へしを,和ハ平ノ字にも義の通ふ故に,三ノ字を中略し,治まれる世を祝する意にて,太平山と改めしものなるべし其例ハ,二荒山[にこうさん]も,字音の通ふままに,日光山と改められしをおもふべし
以下の縁起は太平山神社公式Webに記載されている。式内社説は特にとりあげていない。奥宮は紀元前創建なので,とりわけ延喜式にこだわらず,という自負のあらわれか。
「御神徳記」
第53代淳和天皇の御代,風水害や疫病で人々が苦しむさまに淳和天皇は御心を痛められ,「下野国(今の栃木県)の霊峰三輪山に天下太平を祈る社を造営せよ」との詔を賜り,日の神であり太陽のように命を育む「天照皇大御神」,月のように人々に安らぎを与える「豊受姫大神」,星のように人生の道案内をしてくださる「瓊瓊杵命」,この「日・月・星」の御神徳をあらわす三座の神様をお祀りするために太平山神社が造営されました。すると忽ち世の中は治まり,大いによろこばれた淳和天皇は,勅額を下賜されたのです。
そして,もともと此地でお祀りされていた神様は奥宮(剣之宮・武治之宮)に鎮座されました。
以来,太平山に鎮座している神々は「国を太平に治め,社会を平和に導き,家内の安全を守り,商業を繁栄に導き,人々を守護する祈願成就の神様」として万民の心を支え,篤く信仰されるようになりました。「おさめの神,鎮まります御山」である太平山には御神徳あらたかな神々が鎮座しており,多くの祭典が今日尚執り行われ,人々の幸せを祈り続けているのです。
「御鎮座略記」
太平山神社の歴史は『諸神座記』を始め多くの古文書によれば,垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。今からおよそ二千年も前のことですが,太平山神社の周辺からは古い時代の祭祀遺跡・祭祀遺物が出土しており,太平山は非常に古くから信仰されていた山であったことが伺い知れます。
『太平山開山記』によれば,「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが,淳和天皇の御代の天長4年(827),天皇の勅額を奉じることでついに入山を果たした」とあります。これが今日伝えられている「天長四年慈覚大師開山説」で,旧暦1月8日に執り行われる神蛇祭(しんださい)の祝詞にも伝えられています。こうして太平山神社は「神仏」を祭る山としての第一歩を迎えたのです。この後,太平山は神鎮まる御山として一大宗教の霊地となり,摂末社および寺院が八十余遷座・建立されました。
さらに明徳3年(1392)には後小松天皇から「太平山神社」の額を下賜されましたが,天正13年(1585)の戦火で,これら淳和・後小松両天皇の額は焼失してしまいました。
戦国時代に北条氏と対立する上杉謙信が太平山から関東を臨んだという言い伝えが残っているほど,関東平野を一望できる地に太平山神社は鎮座しております。天正年間に兵火によって社殿が焼失してしまう不幸がありましたが,近世の初期には早くも復興し,徳川幕府から朱印地50石を認められました。さらに寛政年中(1789〜1801)には「御願御抱場」となるなど,民衆のみならず朝廷や幕府からも「天下太平を祈る社」として信仰されました。『雲上明鑑』『雲上明覧』にも「下野 太平山宮司」「野州 大平山神主」または「野州 大平山別當」と記載されるなど,武家伝奏が朝廷へ執奏する社でもありました。
太平山神社は様々な歴史を経て参りましたが,古い昔から,多くの人々の心を支え続けてきたのです。