太平山神社

[おおひらさん神社]

栃木市・平井町659

主祭神:天津日高彦瓊瓊杵命 配神:天照皇大神・豊受姫大神
境内社:星宮神社(天加々背男命)ほか15社 下野神社沿革誌には末社60余社とある
享保八年1723,八代将軍徳川吉宗造営の随神門。
巨大神社なので小生が付け加える事はない。詳細は「太平山神社のWeb」と下記の難読熟語多用の下野神社沿革誌を。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 正一位 太平大権現 太平 連祥寺
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 四巻3丁
下都賀郡栃木町大字平井鎭座 縣社 太平山神社 祭神 本殿天饒石國饒石天津日高彦火瓊々杵命 皇太神 豐受大神 左殿倭大物主櫛𤭖mika玉命相殿二座祭神不詳 右殿伊耶那岐命相殿二座祭神不詳 建物本社間口二間奥行九尺銅葺 拜殿間口三間奥行二間 神樂殿間口二間奥行三間 額殿間口十間奥行二間三尺 楼門間口四間四尺奥行二間五尺 神厩舎間口五尺奥行八尺 神梁殿間口二間奥行三間半 御供水舎間口九尺奥行二間 盥漱石舎間口一間四尺奥行一間 社務所間口四間奥行六間半 唐金華表一基 末社六十餘社 神橋一所 氏子八十戸惣代六員 本社の由緒沿革は該社事績略記に詳かなれは爰には其大略を記すのみ
本社は 淳和天皇の御宇天長四年827比叡山二世慈覚大師(圓仁)當山登攀の時初めて創建する所にして仝天皇御親筆の勅額を賜り神戸神田と附せられ永世勅願所として寶祚無疆國家安穏を祈願せし社にして後明徳(北朝)三年1392(比叡山竹の内門跡覺如法親王の執奏により)後小松天皇の勅額を賜り尋て武門武將の崇敬する所となり就中徳川將軍源家光本社を崇敬し無高社領の(届高は五十石)朱印を賜り別當蓮祥院常に奉仕せしめ維新の再復飾して小林津禰麿と改め専ら神職を以て本社に奉仕せしむ 仝六年小林氏祠掌となり仝廿九年縣社昇格以降社司は岡田順平(足利郡の人にして元栃木縣属史誌編輯専任に従事し廿七年職を辞し本社に奉仕す)社掌は小林公仁麿(小林津禰磨の長子)なり
徃古氏子は四十二郷なるも後九十三村と稱せしは町村癈合の事ありて増減せしものなるへし 祭典は大祭九月廿二日小祭四月十九日を後大祭を十一月十九日と改め其他正月元日に元始祭あり八日に神蛇祭十四日粥懸?祭節分に節分祭五月五日に粽祭六月廿三日にせつかち祭八月一日に八朔祭毎月三日十三日末社祭廿二日の例祭なりしか太陽暦發布以末四月十九日の小祭月並例祭を十九日となし其他総て舊曆の儘執行せり
又造修年度に至ては天正以前は詳かならす其故は天正十二年皆川廣照北條氏政の弟氏直と當山上に於て激戰せし時兵燹に罹り宮殿は勿論什寶古記録等悉く灰燼に歸したれはなり 後別當蓮祥院宜英(宜英は皆川廣照の伯父にて衆庶の信任あり)有志の寄附を募り宮殿を再建して天正十六年1588全く落成の功を奏し遷宮の式を行ふ 仝十八年の役には幸に兵火の難なく明治十三年1880まて時々修繕せしも漸く破壊せしを以て仝十四年本社を改築せり 拜殿は明治九年1876の再建にして巨大壯麗結構なる宮殿とはなれり
本社は往古より地方の大社なるも明治六年社格改定に際し村社に定めらる 仝十年郷社に列せられ仝十五年境内公園地に許可せらる 仝二十九年縣社に昇格せらる
社域一萬九千五百九十九坪山岳にして太た高からさるも本部の中央に斗出し四方開豁北は遥に日光白根高原の連山に望み頭を轉して東を望めは八溝及ひ常陸の諸山あり 西南には甲信の諸山羅列し芙蓉峯は其背に屹立して遥に雲表に聳峙せり 又近くを下瞰すれは東に巴波思の兩川あり 南に利根渡良瀬の兩流あり 西に岩船三毳唐澤の諸山あり 赤間板倉の湖沼は渡良瀬の一水を挟んて帆影の左右に映し玻璃の如く鏡の如く兩毛鐵道の線路は山脚を繞り滊車の往復織るか如く是等目睫の下に臨めは高きものは起伏重畳▢屏の如く 怒濤の如く長きものは逶遞曲折白帯の如く 素練の如く圓なるものは縹渺陰影老樹叢竹の間に出没し烟靄査霧の中に隠見せり 殊に山中には喬木蔚密自ら幽邃にして雅致あり 就中公園開設以來花木を栽培し亭榭を構ひ泉を控き石を敷置し天造の至らさる所は人巧を以て補へしより天眞の美観愈備はり花月に宜しく夏時避暑に適し三伏の候と雖も寒烈を覺ひり 故に脚疾を患るもの此境に遊はは藥石を須すして自ら回春の功を奏すといふ

 

大神社--式内社説

上記『下野神社沿革誌』は式内社には触れていない。半世紀後の『下野国誌』嘉永元年1848脱稿,嘉永三年1850刊行では式内社説を紹介している。
▉巻三-十一 都賀郡三座 並小 大神社(ルビ:オホミワノヤシロ)
鎮座詳ならず,今都賀郡國府の惣社明神の,相殿に祀りてあり,一説に同郡太平山に鎮まりいますぞ,大神社なるを云,其ハ下の太平權現乃条にいふべし
▉巻三-三十一 太平大權現
都賀郡太平山の半腹にたてり,別當連祥院般若教寺とも云,天台宗の大寺なり,傳記に云,當山は人皇五十三代淳和天皇の勅願所にて,慈覺大師の草創なり,神躰は,三光天子にて,本地虚空蔵菩薩なり,中興開山贈僧正亮守と申ハ,觀應(北朝)二年1351常陸國黒子東叡山に移轉して,彼等の中興開基なりとあり,當山三光神社の額ハ,後小松天皇の宸翰にして,中興三世良海僧都の時,明徳三年1392壬申七月,比叡山竹内御門跡覺如法親王の執奏なり,則チ御門跡よりの▢宸添翰に,長沼駿河守殿と記したり,是ハそのかみ皆川の領主長沼駿河守藤原宗恒ときこえし人なり,下の古城部の,長沼系圖の条に委しくあり
和漢三才圖會に,太平大權現祭神佐野源左衛門常世靈云々,常世事ハ嘗テ不載之者何乎,按ニ神名帳ニ都賀ノ郡ニ有リ大神社是乎,と記したり,常世が靈と云よしハ,觀世太夫が所蔵の謡曲本の鉢ノ木の注に,常世が靈ハ下野國太平權現と祝ひ祭るなりと,あるによりしなるべけれども是ハもとより偽作なれば論にもおよばず,常世の事ハ下の佐野系圖の条に云べし,さて當社の社務青木對馬が家記に,寶暦九年1759神社御取調の時,太平山舊号大神社,祭神天孫尊,相殿天照太神,豊受太神と,書上たるよし記し置たり,然らバもとより大神社なるべし,大神社なれバ祭神ハ大物主ノ神なること,上の大神社の条にいふが如し,守弘按に,勅額の面に,三光神社とあるこそ,上の大神社の明證なれ,そハまづ浮屠者ハ,大三輪の社を,三光神社と唱ふ,その所以ハ三輪ハ三和とも書て,三和と三光と,字音の通ふまゝに三光神社とし,止觀六之一に,和光同塵ハ結縁ノ之始,八相成道ハ,以テ論ス其終ヲ云々,また老子に和シテ其光ヲ同クス其塵ヲ云々,などとあるを思ひよせ,日月星辰の三光をも渾合して,つひに三和ハ,三光の義とし,鳥居にも両脇に,袖をつけて,三所をクグる様になしたるを,三和流の鳥居と呼からに,三輪氏の人ハ,そを則チ家の紋にさへ用ふるなり,されバ此山も往古ハ,大三和山と唱へしを,和ハ平ノ字にも義の通ふ故に,三ノ字を中略し,治まれる世を祝する意にて,太平山と改めしものなるべし其例ハ,二荒山[にこうさん]も,字音の通ふままに,日光山と改められしをおもふべし

以下の縁起は太平山神社公式Webに記載されている。式内社説は特にとりあげていない。奥宮は紀元前創建なので,とりわけ延喜式にこだわらず,という自負のあらわれか。
▼ 「御神徳記」「御鎮座略記」本文

 

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