大前神社

大前神社

[おおまえ神社]

栃木県栃木市藤岡町大前383 旧赤麻村

祭神:於褒婀娜武知命 配神:神日本磐余彦火々出見命
境内社:二荒山神社・皇御孫神社・下野式内社(十一社の神霊)・浅間神社
旧地名:下都賀郡藤岡町大字大前字礒城宮 赤麻村大字大前
延喜五年905~延長五年927編纂の延喜式神名帳都賀郡の項に「都賀郡三座並小 大神オホムワノ社 大前オホサキノ神社 村檜ムラヒノ神社」と三社記録された中の二番目で,延喜式内下野十一社の一。
拜殿左手に「下野十一社々殿新築寄付」芳名碑と石宮11がずらり。
「于時寛政四壬子年1792九月吉日」石鳥居。昭和九年1934石鳥居。「天明八戊申年1788」社号標。「天保十四癸酉1843」石燈籠。「文政六未稔1823」手水石。
鷗村森保定撰「神人異徳幽明殊塗鬼神二氣之霜」にはじまる「明治十二年1879己卯中浣・式内国幣大前神社拜殿改作記」碑。ここに「新造拜殿起功于去年一月至本年四月落成焉…山士家光奥書」と明瞭に刻まれている。Thumbnailをつつくと高画質で読めるようにしておきました。もうひとつの「拝殿新築應募諸君姓名抜萃碑」は後述。
明治三十二年1899山士翁顕彰碑(『下野神社沿革誌』に山士家の記録あり)。
明治三十六年1903旗杭。「昭和六年1931玉垣奉納碑」。昭和三年1928と昭和六十三年1988狛犬。「平成八年社務所建設記念碑」。「平成十二年屋根銅板葺替記念碑」「昭和二十八年1953社殿修築寄付者連名」碑。昭和九年1934欅植樹記念碑。明治四十一年1908基本金寄付連名碑。
境内右手に弁財天,向かいの富士塚に明治十一年1878浅間神社。台座に寄付者の住所の興味深い字名が多数。「登美耕地社中」「佐代」「豊城」など。これらは大前の中の小区分であった飯塚,大崎,小池を明治九年頃に改称したものである。しかしここに「礒城宮」は見つからない。
その下の三祠は右から明治天皇,大正天皇,昭和天皇。
鳥居右手上方に明治十二年1879己卯秋九月中浣「二荒大神」,書は日光大宮司京極高富氏。ここにも「佐代小路有志」と新小字が見える。
鳥居外左手に宝暦六年1756,宝暦十一年1761,天明元年1781,文化十三年1816などの文字が読める石塔群。
社務所の東は「大崎公園」で「大崎」表記。江戸末期の『下野掌覧』に「大嵜村」と表記されているので「大前」の読みは「おおさき」だった。明治九年1876以降,ここ143年ほどの間に「おおまえ」に変化したことになる(2017)。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
神名帳十一社 都賀郡三座 並小 大神社(今オホムガト云非也,ワ也) 大前神社 村檜神社
式内十一社 大前神社 大前大明神(都賀郡大前村) 勝光院
*『下野掌覧 坤』萬延元年1860庚申八月発行
延喜式ニ載タル當國十一座 大一座 小十座
大前神社 大嵜村ニアリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 四巻51丁
下都賀郡赤麻村大字大前字礒城宮鎭座 延喜式内 郷社 大前神社 祭神 於褒那武知命 神日本磐余彦火々出見命 建物本社間口三間奥行二間二尺 拝殿間口五間奥行三間瓦葺 神樂殿間口二間奥行三間 繪馬殿間口一間二尺奥行五尺 石鳥居一基 木華表一基 石燈籠二基 氏子百八十九戸 社司欠兼社掌鈴木徳學仝郡藤岡町住
社傳曰 大前神社祭神二座於褒那武知命神 日本磐余彦火々出見尊祠苗所創立 蓋上古星紀綿邈其詳不可得而知也爾後 醍醐天皇(御諱敦仁)延喜五年幸蒙勅撰列于式内神社馳神名於海内而來至今經年凡千有余歳神徳雖随世而有旺襃常爲邦人之所崇敬抑有以哉當時殿宇果宏壯俯臨湖水(所謂多々良湖松平従四位僧税正徳元年1711辛卯五月開墾スト)景色絶佳是以上國風騒之士有時乎遊覧焉吟詩歌以述即興惜乎篇什散逸而不傳獨所存者正二位爲教卿歌一首而己其詞曰「名示志於褒前乃式世遠經示計良之三本乃松毛神験加波」且社頭之四面徃々出銕滓村民試堀之深乃丈餘猶未盡可謂夥矣 相傳有鎔エ住旁朝昏鼓▢以鑄▢鼎銕滓自山積及歳月之久漸埋没于地中理無足怪由是觀之徃古之洞邊工商雑居以嚮其業土地格繁盛而始應不類今之寂寞矣祠之興廢徳之盛哀亦可推知焉於乎世界桑滄之變時運旺哀之理民神之必所難免也中世 皇室式徴政帰于武門經鎌倉室町佛法盆熾而神道彌廢祀典殆熄及至徳川氏頗繼絶興廢國内神祠所在給璽地賜除地(除租庸調之地)以存舊跡諸州牧伯能体其旨菅下之神佛亦皆争附除地以充祭祀及營繕之用費元和八年1622二月十五日擧村爲古河所領城主永井直勝(右近大夫)除地五反歩外田畑四反七畝歩以資時祀後轉佐倉領除地如故明治三年庚午九月以本社被定于部下之大社村之外遠近數村伍爲氏子(邦俗以里社爲氏神以里民爲氏子従來尚矣)神威稍顕方今 皇室中與敬神之政復大行于天下明治五年壬申十月二十五日於栃木縣廳辱郷社之命▢郷更致尊崇神徳爲之轉増明云(原文の儘)
社域二千四百八十七坪高燥の地にして四顧開豁田野に接し境内には松杉櫻枝を交へ蔚然として四方に繁茂し其中央に本社拜殿(拜殿は明治十二年1879の再建にして仝村山士家左聘氏の盡力によると云ふ)雜舎に至るまで壯麗ならさるも頗る優美にして高潔 花時には一簇の香雲松樹の深翠と相映し風色幽邃なり

延喜式内の文字
天明八年1788社号標
寛政四年1792
延喜式内の文字 昭和六年1931玉垣奉納碑 文政六年1823
延喜式内の文字 拜殿
石垣の上に本殿覆屋
拜殿の奉納額
天保十四年1843 拜殿改作碑
山士翁顕彰碑 左端の碑に磯城宮の文字
御輿庫 下野十一社寄付芳名 下野式内社十一社
神樂殿
境内右手
基本金寄付連名
昭和二十八年1953寄付芳名 大崎公園が見える
弁財天
弁財天 富士塚 浅間神社
明治・大正・昭和天皇
二荒大神
植樹記念 社務所
社務所脇に二荒大神 入口の石塔
忠魂碑 鎭座の杜
500m南に遠鳥居 大正二年1913造立か
境内左手に式内社11の石宮が並んでおり,その左端の自然石台座に乗った長方形の碑が明治十二年1879「大前神社拝殿新築應募諸君姓名抜萃碑」である。左側面に「大前神社其先号磯城宮」の文字が刻まれている。3枚とも同じ面を撮り方変えてみたものだがほとんど読めない。
号磯城宮に赤線
写真でお分かりのように素人には読めないので「大前神社碑文検討応援記」でご覧ください。
これをふまえて昭和六十三年1988御影石の沿革史は「大前神社はその先礒城宮しきのみやと号す」としている。
姓名抜萃碑の銘文を書いた鷗村士と同一人の鷗村森保定撰「明治十二年1879己卯中浣・式内国幣大前神社拜殿改作記」碑が神楽殿脇にあり,こちらは磯城宮に触れていない。
 式内國幣大前神社拜殿改作記 鷗村森保定撰
神人異徳幽明殊塗然鬼神二氣之䨩造化之迹而人物之所資生也故原始要終則神人同氣幽明一致是其故何也自古神化為人人死為鬼一往一來循環无窮孰知其端倪抑鬼神之為徳靈妙不思議能知人之所不知能人之所不能豈得以其無聲臭忽之乎?哉宜其天神地祇屬正祀者世率敬事之以致如在之義蓋非人情歸厚各自知報本及始安能至此曩大前神社之擢郷社也殿宇頽廢祭儀難擧郷人深慨之有志數輩胥議首鐻金無論村裡遍勸募資財區内以新造拜殿起功于去年一月至本年四月落成焉閲月凡十六經日凡四百八十費金千圓強其間拮据周旋幹事者之勞不可得而没也因記其由並鐫其姓名於碑陰以諗後人云
 明治十二年巳卯九月中浣 山士家光奥書
       醵誤鐻金下脱凡字強字衍

江戸期1800年頃の『鹿沼聞書』には「大前神社,大前大明神,別当勝光院」と記録されている。万延元年1860の『下野掌覧 坤』には「大前神社 大嵜村ニアリ」とある。江戸期にはは「大前神社or大前大明神」なので,平安から江戸の間のいつごろかに「礒城宮」と称したのかは判然としない。あるいは延喜式では礒城宮でなく大字「大前」「ニアル神社」で記録したのだろうか。大字大前と字礒城宮の大小字名はいずれも社号が由来と考えられるのだが,謎である。
●当社は明治十二年1879四月に400mほど北より移転した。このとき大前神社の「別名」礒城宮を小字名にしたかと推測するが,あるいはこのとき初めて「礒城宮」を持ち出したとすれば問題は複雑だ。旧鎭座地は400m北北西の「字北前」で「国造西」の西の台地であった。明治五年頃と思しき「社伝」には「多々良湖」に臨むとあるが湖は今はない。この社伝に「礒城宮」は記録されていない。明治十二年以前に鎭座地の字名が「礒城宮」であったなら納得いくのだが「字北前」であった。
●旧社地古跡碑は当社の北100mにあるが,この碑は土地改良のため移転してきていて,旧鎭座地とは無関係の場所に設置されている。(2019/7現在)
延喜式内大前神社古蹟 後ろの森に大前神社 旧鎭座地はここから300m北
旧鎭座地はこちらの方角かも 中央に古蹟碑
●磯城宮[しきのみや]について,同じ下都賀郡のもうひとつの式内社大神神社社伝に磯城瑞籬宮[しきみずかきのみや]が時代を表わす語で登場している。現在の推定ではは3世紀後半の第十代崇神天皇の頃をさす。
『下野神社沿革誌』(明治三十六年1903刊)四巻十九丁
下都賀郡國府村大字總社室八島鎭座 郷社大神神社
本社創建遼遠にして詳ならす 延喜式内にして明治五年1872郷社に列す 社傳に曰く磯城瑞籬宮の御宇天皇御世 豊城入彦命を日本大三輪大物主神及ひ相殿の神四座新宮の神一座新宮相殿の神一座を室の八島の地に齋奉り賜ふ 延喜神名式に下野國都賀郡大神社とあるは則此御社の御事なり。(以下略)

磯城瑞籬宮は知る人ぞ知る名詞であるが大神神社社伝を読むことのできた神社関係者が同時代の創建ということで瑞籬を抜いて「礒城宮」としたか?
●もうひとつ埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘にある「斯鬼宮」の地を関東で探してみると「礒城宮」が見つかったということで,当社に比定するとの説が出されたことがある。
●鉄剣発見はるか以前の小字の命名者が斯鬼宮を知っていたわけではない。
●小生の単純なアタマでは,古来「シキノミヤ」であるなら,なぜ延喜式神名帳に「シキノミヤ」で記録されなかったのか?旧鎭座地の字名が北前だったのは?と?が無数に。
●礒城宮とは関係ないが『日光道中分間延絵図』の思川の東,現在の間々田磯の宮水森公園あたりに「字磯宮御林」が二か所書き込まれている。文化三年1806以前の情報で,御林は江戸の発展にともなう木材供給のための植林地の名称で,このあたりでは磯宮を冠した。大前神社は思川の西でかなり離れているので無関係だが,江戸時代に「磯宮」という字の名がありそれを採用した役人がいたということは分かる。
■森鷗村(天保二年1831-明治四十年1907)は藤岡の儒学者で本名は保定,通称は士興。藤岡神社に「鷗村先生碑」があるように土地の名士であった。
田沼町の一瓶塚神社にある「真斎先生壽蔵之記」も森保定士興謹撰。
宇都宮市立図書館に備えてある『藤岡市史 通史編 後編』p.198「大前村の地名をめぐって」にはおもしろい書き方で明治九年の字名命名の由来を解いている。
大前村は近代初期までは大崎村と表記されることも多く,そのことからもオオサキと発音されていたことがわかる。明治九年1876に大前村・飯塚村・湖池村の三村が合併したのであるが,その際に旧村に新たな地名を冠して称することが行われた。小堀米市家の明治九年御用留によれば,三村が合併して「大前村」となり,旧小池村は豊城耕地,旧「大崎村」は佐代耕地,旧飯塚村は登美耕地と称することになったと記されている。これについて大正期に編さんされた「郷土史赤麻村」にはつぎのようにある。
 「前」ヲ「崎」ト錯雑用イ来ルノ処、明治九年一月,飯塚ヲ登美,小池ヲ豊城,大崎ヲ佐代ト呼ビ,総称シテ大前ト唱フルナリト,今ニ口碑存ス
 この豊城は「豊城入彦命」,佐代は「佐代公」,登美は「登美首」にちなみ,豊城入彦命が東国鎮定に派遣され,その子孫が下野の国主になるという古事記の記述をふまえたものと考えられる(石川 一九九九)。そこから,この改称には国学的教養をもった人物の影響がうかがえる。町村合併にあたって旧村に新たな地名を冠するということは,極めて稀であるが…

国学的教養をもった人物が鷗村先生や教え子だったかもしれないといっているのではないか,字磯城宮も同様の経緯で明治九年頃新たに名づけられたと推測しているのではないかと思えてくる。
(2019/7未解決。文脈混乱も御勘弁を)

 

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