主祭神:天照皇大神 配神:造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)・須佐之男命
境内社:須賀神社・恵比寿神社・大国主神社・魁稲荷神社・淡島神社・琴平神社・富士浅間神社・市姫神社・愛宕神社・小御嶽神社・松尾神社・福寿稲荷神社
栃木市中心部,蔵の町大通り観光協会の北裏手に鎭座。大通り沿いに「縣社神明宮」社号標。路地奥に平成2年1990建立の朱色の大鳥居が見える。鳥居脇に明治三十四年1901社号標。文化十五年1818狛犬。(?要再調査の年号=文政三庚辰1820,石工野口藤左ヱ門,宮田清兵衛,良稔?)。左手に福寿稲荷神社,その前に象のように見えるが尾の太い動物の上に彫刻の施された石燈籠は,文化十四年1817琴平宮奉献,鵬齋興書とある。明治二十年1887手水石。
昭和二年1927天水鉢。
拝殿正面左側に算額,「關流 田村與兵衛源正知門人 紀元二千五百五十七年」とあり明治十年1877に三題が奉納されている。
神道中教院創設に関わる大事業を記録した大正四年1915興学碑。
詳細は
「神明宮のWeb」を。
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
神明宮 杤木駅鎮座 祭主黒宮氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 四巻3丁
下都賀郡栃木町大字栃木字旭町鎭座 縣社 神明宮 祭神 天照皇大神 建物本社間口三間奥行二間銅葺 拜殿間口八間奥行仝 末社九社 社務所一棟 木華表一基 氏子千百五十一戸 社司欠社掌石川文造仝町住 本社は應永十年1403九月十六日の創立にして元は栃木城内村に勸請せしものなりしか天正十七年1589正月領主皆川山城守か今の社地栃木町に移遷し町内を神明宿と改稱し栃木町の惣鎮守神と崇敬す 明治十年1877地租改正の際田中坪を神明宿に合併し字神田と改稱す 襲て縣社に列せらる 社域七百九十九坪境内平坦の地にして石の燈籠カスの燈籠左右に並列し梅櫻所々に點綴し佳致の中に本社拜殿広大壯麗にして明治八年1875の再建なりと云ふ 近年同地の有志者相議り藤川前知事の事蹟を祿したる一基の碑石を境内に建つ
▊鳥居をくぐって右手に建てられている案内板に「当社の御本殿にはその昔,天高くそびえる十本の千木があり「十千木」と呼ばれるようになったことから,県名発祥の地といわれております」とある。
現在の本殿は明治十六年1883造営のもので,千木[ちぎ]は2,鰹木[かつおぎ]が8の構成なので「その昔」とは異なる趣。
現在の県名で使われる「栃」も,神明宮起源の「杤」も日本でつくった文字。十千木からできた「杤」は頓智がきいていて10×1000を漢字で書いて「十×千」で[とおち]イコール「万」が字形になっている。樹木名の漢字ではなく地名のための文字。
旧県庁前の昭和43年石碑では「史蹟橡木県庁址」と「橡」字で刻まれている。「橡」の字を公用とした時期があり,一般的には「杤」を使った。
万延元年1860編纂の神社一覧である『下野掌覧』では「とち」の字は「杤木駅」「野州杤木仲町」など「杤」で彫られている。
明治五年1872壬申十一月の地券に「杤」の字,明治十二年1879八月二十一日の改正地券にもまだ「杤」が使われている。明治八年1875の卒業証書授与なんとかに「橡木縣令鍋島幹殿」と「橡」の字。これらは栃木県博物館に現物が展示してある。たしかに県名なのに混乱している。
明治のいつ頃か(4年か)維新政府の役人が県に渡した公印に誤って「栃」の字を作字して使ってしまったため,県庁内で混乱が生じ,明治5年から12年まで8年がかりで偽字に統一させられたらしい。樹木名の文字「櫔」の「萬」を略して「万」に置き換えて明治初年に役人が新しい文字「栃」を作ったのである。木+万の方が簡単かつ機知に富んでいて良かったような気もするが。
「とちぎ」の漢字起源説は他にもあるがここは神明宮なのでこの辺で。
「とちぎ」の文字学は,詳しくは中田祝夫先生の『日本語の世界4』中央公論社1982刊,p.123-140をお読みください。専門家が栃木に17ページを割いているので素人が3行に要約するとろくなことになりませんので。
▊むかしの栃木町の商家が三店舗共同で遠く離れた那須郡の古社二社に社号標を奉納している。旧馬頭町の「武部山神社」と旧小川町の「三和神社」の二社で,いずれも延長五年927編纂の『延喜式』「下野國十一座」に記録された,いわゆる式内社である。
三和神社の社号標裏面に「同国 杤木町 糸屋 萬屋 穀屋」と刻まれている。
健武神社の社号標裏面に「杤木町 万屋 糸屋 穀屋 氏」とある。
三和の方ははっきり「杤」なので健武山神社の鳥居手前の社号標も,見えにくいのだが「杤」であることが分かる。
残念ながら社号標を刻んだ年号は見つからないが,「杤木町」は江戸期から昭和12年まで使われたので,その間のどこかで奉納したのだろう。