出流

出流神社

[いずる神社]

栃木県栃木市出流町266

祭神:大山祇神 境内社:八坂神社
出流山満願寺の守護として江戸中期に創建され,字の金剛童子からとって金剛神社と称した。
明治二十四年1891石宮。昭和十七年1942石鳥居。
昭和六十年1985改築記念碑は第六十一世出流山主席大僧正教智の書。
昭和六十年1985「出流神社参道」石標。
出流山のそば屋さんの中では奥の方,満願寺仁王門直前の「福松」さんで細身のそばをいただいて,車を止めさせてもらい神社の行き方をおたずねすると,すぐ裏,駐車場から階段を上れるとのこと。なるほど,福松さんの屋根の上の竹やぶに神社が隠れている。
もうひとつの入口は手前の車道沿いに参道石標がある。
例祭:4月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 金剛神社 出流村民
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-15丁
下都賀郡寺尾村大字出流鎭座 村社 出流神社 祭神 大山祇命
建物本社間口三間奥行四間 末社一社 氏子五十八戸
本社創立不詳 社域九十七坪にして字金剛童子の清洒の地に在り
額なし
格子から
改築記念碑
背後は山
「出流神社参道」
福松さんの看板の向こうに社 満願寺方向
春日

春日神社

[かすが神社]

栃木県栃木市大久保町627

祭神:天津兒屋根命 配神:武甕槌神・経津主神・比賣神・大日靈貴神・伊耶那伎神・伊耶那美神・須佐之男神・大国主神・高龗神・磐裂神・根裂神・多紀理毘賣神・大山祇神・迦具津智神・味耜高日子根神
承平六年936藤原秀郷によって創建された古社。寿永元年1182大風で倒壊,応永三十三年1426佐野師綱が再建。天正年間1573~92に焼失,慶長二年1597再建。本殿はこのときに造営したもの。明治五年1872拝殿造営。昭和四十一年1966台風26号で倒壊したため翌年改築して遷宮。
以上の由緒は平成六年拝殿幣殿新築記念碑の裏面にもう少し詳しく刻まれている。道路側の平成二十五年建立の碑には由緒沿革と祭神,配神が書かれていて,配神に口みっつつきの正字で「高龗神たかおかみのかみ」が刻まれている。
明治二十五年1892石鳥居。明治四十年1907旗杭。鳥居手前の下部が土に埋もれた「莫神門入不浄…(不浄なるもの神門に入るなかれ)」石塔に小細字で「鎮守府將軍従四位下武蔵守秀郷‏/守▢神鶴巻鎮座藤原宮」と謎の文字。奉納年は読めない。鎮と神は旧字体ではない。▢は「筆」に似た字。弦巻でなく鶴巻。当地の小字は弦巻。すると「藤原宮」と称したことがあった? この石塔は後世奉納,それとも超貴重品? 謎である。
鳥居右下に「文化七庚午歳1810」石塔。これは石燈籠の柱か。
平成九年玉垣柱に春日神社社号。
「文政四辛巳天1821奉納春日大明神御廣前」石燈籠一対。昭和七年1932手水石。平成六年狛犬。
境内右手の石燈籠付き石宮は明治三十六年1903。石燈籠に「金光山廣前」
「てらお すてき発見案内パネル・八朔が近づく夜の祭ばやし」
例祭:10月15日 5月1日梵天祭 7月第三日曜日に八坂神社の天王祭
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 正一位 春日大明神 大久保 小倉和泉
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
正一位 春日大明神 大久保村鎮座 祭主小倉氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-14丁
下都賀郡寺尾村大字大久保字弦巻鎭座 村社 春日神社 祭神 天津兒屋根命 武甕槌命 斎主命 姫大神 祭日陰暦四月十五日九月十五日
建物本社間口五尺二寸奥行四尺四寸小羽葺 拜殿間口四間奥行二間杉皮葺明治八年1875再建 幣殿間口二間奥行二間杉皮葺明治二十五年1892再建 石華表一基 石燈籠一基 氏子五十七戸惣代三員 社掌小倉豐次郎仝村大字仝三十七番地
社傳に曰く本社創立は承平六年936九月十五日當國佐野に鎭座せる春日神社を遷座す 佐野家代々崇敬の神社にして慶長二年1597佐野秀綱本社再建す 佐野家滅亡以後は氏子にて保存せしか明治五年1872縣郷村社々格改定に際し第一大區四の小區の郷社となる 其區内村々は大久保梓中形尻内梅澤鍋山出流星野永野の九村にして神主は往古古田村と稱せしか故ありて小倉と改め奉仕せり 維新郷社となりては小倉豐光は祠宮にして祠掌は大館兼通なりしも明治十年1877行政區畫改正に際し村社に列せらる 本社拜殿とも壯麗にして氏子の敬神滋々凝結の意を顕し明治廿五年1892花崗の大石を以て一大華表を建設し正二位勲一等佐野常民の揮毫せし神號の大額をも奉納あり風色嫣然として掬すへし 社域百八十坪余境内狭小と雖も高燥にして古杉老樹蔚々蒼々として春の花秋の紅葉の類社殿に接し幽静にして愛すへし 又田甫を隔て坤位には永野川滾淙々として鳴り以て耳を洗ふに足るへし
春日社 拝殿右手
莫神門入不浄
幣殿拝殿新築記念碑裏 祭神など
高龗神
金光山廣前石燈籠
春日神社額
文化七歳1810 巨木があった
軍馬霊神 てらお すてき発見案内パネル
愛宕

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県栃木市尻内町1752

祭神:火産霊命 配神:磐裂命・根裂命 境内社:八坂神社
江戸中期の創立らしい。
例祭:4月15日 4月24日,8月1日に千日詣(この日に参詣すると千日分の参詣になる)
寺尾小学校の北隣りに平成二年「愛宕神社入口」標識があり,奥に石段が見える。入っていくと昭和十年1935石鳥居,右手は「八坂大神」額があるので神輿庫だろう。脇に昭和十二年1937軍馬忠魂碑。
左脇に昭和六十三年1988「愛宕神社本殿‏/石段改築記念碑」。この裏面に重要な情報が記録されている。
駒野神社祭神保食神‏/星宮神社祭神磐裂神・根裂神‏/合祀記念
我が國は神國として往古より各部落に於て産土神を崇敬信仰して来たものである。當尻内部落に於ても先人達から愛宕神社を始め駒野神社星宮神社を産土神として崇敬信仰して来た。時至って昭和二十年大東亜戦争終結により国家神道が宗教法人に改正せるものなり。其の折,駒野神社星宮神社を宗教法人として申請之無きため国有地となる。氏子一同大いに驚き,役員会を組織し之が宗教法人の加入の任に当り,同時に愛宕神社本殿並に石段の改築も執り行ふ事も決議。其の資金造りとして愛宕神社所有山林尻内町深沢棚一、六七二番地一二六五四㎡を三井松島碎石株式会社に賣買し,愛宕神社本殿並に石段の改築及び駒野神社境内地一二二○㎡○○星宮神社境内地七六四㎡○○の国有地を拂下愛宕神社境内地末社に合祀し,よって氏子一同益々敬神崇祖の念厚うし産土神として崇敬するものなり。
  宮司 大阿久岩雄選文 昭和六十三年四月吉日

『鹿沼聞書・下野神名帳』に記録されている尻内の駒野と星宮が『栃木県神社誌』に記載されていない理由が判明する。駒野の祭神も判明。駒野と星宮は愛宕の境内社(境外社)扱いとして生き延びたことになる。
直線の石段を上って踊り場に出るとさらに右に石段が伸びていて大きな拝殿が見えてくる。拝殿に「愛宕神社」額。拝殿左手のに神楽殿。
右手に昭和三十八年1963改築記念碑。この裏面に「祭神加具土命ヲ祭レル當神社…」とあるが,翌年刊行の『栃木県神社誌』昭和39年版から祭神は火産霊命になり,平成18年版もそれにならっている。『下野神社沿革誌』も火産霊命なので,碑文裏面はきちんと撮影して読み直さないといけない。ご覧のように写真は失敗。
神楽殿の裏手に回って急な斜面下の方に稲荷神社の屋根と朱鳥居が見えるが降りられそうもない。2019/8の炎暑でへとへと。西側に正規の入口がある。またの機会に。
寺尾南小学校の南隣りに元文五年1740十九夜,延享三年1746石塔,寛政六年1794普門品供養塔など多数。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-15丁
下都賀郡寺尾村大字尻内鎭座 村社 愛宕神社 祭神 磐裂命・根裂命・火産霊命
建物本社間口三間四方 氏子四十八戸
本社創立詳かならす 社域一千六百五十坪 字内宿に在り
入口標識 昭和63年石段
八坂大神
神輿庫のようだ 改築記念碑 駒野・星野合祀のこと
読めるようにもう一枚 愛宕に至る石段 拝殿
神楽殿
本殿右手に記念碑
拝殿内
改築記念碑 祭神加具土命 神楽殿
稲荷神社朱鳥居 稲荷神社屋根 神楽殿を見上げる
寺尾南小 公民館
小学校左隣り 嘉永七年1854 左奥:延享三年1746
駒野

駒野神社

[こまの神社]

栃木県栃木市尻内町284-1

祭神:保食神
愛宕神社の麓に建つ昭和六十三年1988「愛宕神社本殿‏/石段改築記念碑」に当社の事情が刻まれている。愛宕入口まで南西に約800mほど。
尻内交差点から北に永野川を渡り、ばんどう太郎の北隣りの山上に鎮座。両部鳥居の額は消えかけている。「駒野神社」のようだ。昭和六十年1985石段柱に「駒野神社」
石段を上ると立派な拝殿。左手に「万延元庚申年1860男體山」
右手の境内社覆屋に石宮三基、四連の木製祠。石宮の中央のみ年代が明治十四年1881と刻まれている。背後に旧石祠が保存されている。
境内社右手の石碑は平成二十八年「駒野神社改築記念碑」,ここに源義家の愛馬にまつわる創建説が刻まれている。
 駒野神社風土記・源義家と尻内について
後三年の役には,源義家は陸奥守府将軍に任ぜられていた。永保三年1083彼の軍勢の奥州への北進路は,下総古河から下野国へ入る。本地区にはいり峠にさしかかったとき、馬が始めてないた。そこで初音山と名ずけたという。その晩その近くに陣をはった地区を内宿という。それで内宿の名が残っている。
彼の馬は翌日尻内に至ってついに一歩も進まず従者たちが,馬の尻を押したり打ったりしたことにより,尻うち(尻内)という。
しかし乗馬は永野川を渡って小馬をうみ,死んだので小祠をたてて,駒の明神と称した。現在の駒野大明神(駒野神社)である。

昭和十六年1941五月奉納の狛犬。平成七年石燈籠。
「てらお すてき発見案内パネル・ついの宿愛馬を祭る駒の明神」
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 駒大明神 尻内 常徳寺
道路沿いに鳥居 鳥居額
拝殿 本殿
拝殿左手
男體山 拝殿右手 境内社
境内社裏手
駒野神社改築記念碑 駒野神社風土記 昭和十六年1941狛犬
 
 
大木があった
  鳥居を見下ろす
神輿庫 神輿
星宮

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県栃木市尻内町797-1

祭神:磐裂神・根裂神
愛宕神社の麓に建つ昭和六十三年1988「愛宕神社本殿‏/石段改築記念碑」に当社の事情が書かれている。天文年間1532~55の創建説が伝わる。愛宕から400mほど南西に鎮座。
昭和四年1929旗杭。朱色の鳥居の足もとに,安政七年1860庚申塔,青面金剛,男體山。
石段を上ると右手に嘉永三年庚戌1850「奉納・子安観世音」石燈籠。
さらに石段を上ると本殿覆屋。左右に「正徳元辛卯年1711九月吉祥日」の石燈籠。300年以上前の貴重品。「下野國都賀郡尻内村願主・奉寄進石燈籠氏子繁盛処・宋悦」の文字。右手のもう一基は「安永四未年1775九月吉日」
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 星宮大明神 尻内 満蔵寺
最初の石段を上ると
子安観世音石燈籠 嘉永三年1850 さらに石段
石燈籠三基 社殿
本殿
正徳元辛卯年1711 安永四年1775
  鳥居を見下ろす 境内から
道路から 鳥居左手 安政七年1860
鳥居右手
付近に馬頭観世音など
星宮

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県栃木市星野町1037-2

祭神:磐裂命・根裂命・経津主命
保延四年1138創建。旱魃の時,雨乞いをしたところ経津主神が里長の夢に現れ,神使の鰻が海に下れるよう川幅を広げろとのお告げがあった。三日三晩で川幅を広げ終えると雷雨となった。星野では今でも鰻を食べない。
星野遺跡の入口,32号線沿いに鎭座。
栃木市の立てた「星宮神社の彫刻」案内板に本殿彫刻の図柄紹介が書かれているのはありがたい。祭神の「経津主命」の読みが[つつすぬし]とあるのは[ふつぬし]のことで,どうしてこんな間違いが生じるのかしばらく悩んでしまった。本殿は覆屋の板囲いのすき間からのぞける。すき間が狭いので撮影は写真の程度が限界。
本殿真裏に何やら厳かな岩が祀られている。大きな字が刻まれているが読めない。土台の文字は「總村中▢」か。
寛政四壬子年1792石鳥居,昭和十四年1939社号標,大正七年1918旗杭。
境内社前に天保三辰1832石燈籠。もう一基は宝暦かもしれない。
石宮には社号が彫られている。右から雷神社,不明(八坂?),天満宮,熊野,稲荷神社,不明。
石段を上って右手には神輿庫。その左に大正十五年1926拝殿新築記念碑。
例祭:4月15日 10月15日前の日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 星宮大明神 星野 星明院
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-15丁
下都賀郡寺尾村大字星野鎭座 村社 星宮神社 祭神 經津主命・磐裂命・根裂命
建物本社間口二間奥行二間半 拜殿間口二間五尺奥行二間半 末社一社 氏子六十二戸
本社勸請年月詳ならす 社域七百三十一坪を有し字岩崎に在り
道路沿いに鳥居 石段を上る 上って左手に社殿
拝殿に多数の奉納額
?宮 寄付者芳名額
拝殿内 本殿彫刻解説
本殿覆屋の額 本殿
本殿 左側面 右側面
裏面左部 裏面右部 本殿真裏
なんだろう
社号が分かる 天保三辰1832
石段上って右手 神輿庫 神輿
拝殿新築記念碑 記念碑裏
軍馬霊神 寛政四年1792鳥居 寛政四壬子年1792
手水石 石段左手
道路から社殿
星野遺跡記念館 昭和60年1985地蔵菩薩 星野遺跡
鹿島

鹿嶋神社

[かしま神社]

栃木県栃木市鍋山町791

祭神:武甕槌命・経津主命 配神:譽田別命 境内社:雷神社
養和年間1181~82不摩城を継いだ木村正綱が譽田別命を祀る八幡宮に常陸鹿島より御分霊を勧請,鹿島神社とした。
鳥居額,社号標とも「鹿嶋‏/香取太神宮・神社」表記。
明治四十一年1908諏訪神社,熊野神社,厳島神社を合祀。
堂々たる朱色両部鳥居をくぐって石段を上る。途中左右に石燈籠。石段上部に間口の広い大きな拝殿。拝殿左手に神庫,右手に聖徳太子と嘉永五年1852子八月の読めない石塔。
本殿左手に石宮,真裏の覆屋内に木製祠,雷神社か。
明治三十四年1901手水石。
例祭:10月15日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-15丁
下都賀郡寺尾村大字鍋山鎭座 村社 鹿島神社 祭神 武甕槌命
建物本社間口四間半奥行二間 拜殿間口五間奥行二間半 末社一社 氏子百七十五戸
本社創立詳かならす 社域一千八十五坪を有し字鹿島前に在り
鹿嶋‏/香取太神宮 鹿嶋‏/香取神社 石段途中左手
途中右手 大きな拝殿 拝殿左手
拝殿右手 千木つき本殿
本殿 手水石 拝殿右手
聖徳太子と嘉永五年1852石塔 太子堂内 神庫
神庫内 本殿左手の石宮
本殿真裏 雷電社か
かなり高いところ 巨木があった
両部鳥居 軍馬霊神
星宮

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県栃木市梅沢町389 下梅沢

祭 神:磐裂命・根裂命・経津主命
境内社:八坂神社・日光神社・大山祇神社・稲荷神社
江戸期の文献ふたつに下梅沢と上梅沢の星宮大明神がそれぞれ記録された。梅沢が上下に分かれたのは享保年間1716~36のことで,ひとつの梅沢町になってからも2019/7現在二社確認できる。こちらは388坪。
梅沢には永野川が流れていて,上永野,下永野と同じく上流が上梅沢で,こちらが下梅沢。上梅沢の星宮は下記の梅沢町985に鎮座。直線で1.5キロ西北。
『下野神社沿革誌』と『栃木県神社誌』には,下梅沢の当社が記録された。
入口に明治廿年1887石鳥居。平成十年社号標。古い旗杭。この先に石段。
長い石段を上ると昭和四年1929旗杭。左手に明治卅八乙巳1905手水石。
拝殿に至る石段前に「宝暦八戊寅年1758十一月吉祥日」石燈籠。上下梅沢に分かれてから十数年後に奉納されたことになる。
右手に平成七年星宮神社改築紀念碑。裏面に改築寄付者芳名。新しい石燈籠はこの年に奉納された。
本殿右手に石宮,背後に伐採の跡。
例祭:4月15日に近い日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 正一位 星宮大明神 下梅沢 菅井豊前
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
正一位 星宮大明神 下梅沢村鎮座 祭主菅井氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-15丁
下都賀郡寺尾村大字梅澤鎭座 村社 星宮神社 祭神 磐裂命・根裂命・經津主命
建物本社四尺四方 拜殿間口四間奥行三間 末社二社 氏子百七十七戸
本社創建不詳 字宮下に鎭して社域三百四十三坪を有す
これ以上下がれず 石段
大きな拝殿 左手 右手
額なし 本殿
拝殿前 本殿裏手
宝暦八戊寅年1758 拝殿右手
伐採の跡 こんな木が多数生えていた
神庫
高所に鎮座
拝殿方向 鳥居方向
星宮

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県栃木市梅沢町985-3 上梅沢

祭神:磐裂命・根裂命・経津主命 境内社:社号不明複数
梅沢が上下に分かれた享保年間1716~36以降の創建と推定。
こちらが上梅沢。下梅沢の星宮は直線で1.5キロ東南の梅沢町389に鎮座。
明治三十六年1903石鳥居。昭和四十年1965らしき旗杭。鳥居前に上梅沢公民館。
社号がゼンリン地図に星野宮で載っている。社号標,額がないので拝殿下の古そうな石燈籠を眺めてみた。年代は読めない。「八月吉祥日」はくっきり。一基は「奉寄進星宮大明神御▢前」,もう一基は「奉寄進○宮大明神御▢前」が読める。○は字配りから一字なので「星宮大明神」である。江戸時代の石燈籠だ。▢は廣か寶だろう。年号は残念。寛のような字が見えるので,下梅沢の石燈籠から推定すると寛延年間1748~51かもしれない。
「てらお すてき発見案内パネル」に「食わず取らず鰻は神の使いする」
西の大日堂には「安産を祈って建てた十九夜尊」
例祭:4月15日に近い日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 正一位 星宮大明神 上梅沢 小倉和泉
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
正一位 星宮大明神 上梅沢村鎮座 祭主小倉氏ナリ
石段左手
石段右手
男體山 奉寄進星宮大明神御▢前 奉寄進○宮大明神御▢前
八月吉祥日 ここに年号があるはず 8月猛暑日の光で
額なし 本殿
拝殿左側面 拝殿左手
四社 右手に一社
てらお すてき発見案内パネル 上梅沢公民館
付近の大日堂 多数の十九夜供養塔

 

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