▊塩谷郡・矢 板 町『下野神社沿革誌』巻七-3丁(明治三十五年1902)
本町は矢板,富田,木幡,川崎反町,境林,舘の川,高鹽,倉掛,片俣,鹽田,幸岡,荒井,下太田,針生,中及ひ土屋の舊十六村を合せしものにて其幅員東西凡二里南北一里廿五町にして矢板は殆と其中央に在り 自餘の部落其四周を包圍するものゝ如し 地勢平坦にして小丘あるのみ 水流數派あり其大なるものを内川とす 南流して片岡村に入る 各大字部落徃来の便に至りては縣道縦横に通し且つ日本鐡道東北線は矢板に停車塲を置き以て各地へ復徃の利便を有せり 風俗敦厚にして勤儉の風あり 矢板は商業に其他は農耕に従事し頗る勤勵す
舊各村の沿革を尋ぬるに徃時は各領主を異にし矢板富田針生は堀田相模守 中村は堀田及ひ岡部の分領に属し 川崎反町境林舘ノ川倉掛片俣鹽田幸岡は戸田土佐守の領邑にありしか維新后栃木縣の所轄となり第三大區三小區に編入せれ敷次の變遷を經て三戸長役塲に分属し遂に又合して今日の一自治區をなすに至りしものとす
本町には有名なる郷社木幡神社及ひ村社十五社あり氏子戸數八百九十餘戸人口五千餘人を有す
木幡

木幡神社

[きばた神社]

栃木県矢板市・木幡1194


主祭神:天之忍穂耳命 配神:事代主命・田心姫命・大己貴命 境内社:八幡神社(高龗神など祭神23柱) 7307.9坪。
宇都宮市からは242号線で東北道をくぐり,左手に川崎城趾,ともなり信生庵を見て直進,内川を越え,東北本線の踏み切りを渡ると前方に南北に横たわる杉の山が見える。この南端に鎮座。
途中に冠木門が見えるが,鳥居と見てよい。これは裏の入口。一の鳥居は駐車場のさらに南。一の鳥居も裏門の鳥居と同じ笠木のない冠木門形式。柱のてっぺんに屋根が付いている。
脇に生駒神社,馬頭尊石塔。
一の鳥居の右手に下社。神仏混交の時代に楼門を守護していた仁王像2体がこちらに遷されている。
二の鳥居は木製朱塗り,「塩谷惣社大明神」の扁額。
鳥居左手に「男體山(天保十三年1842)」「熊野三神(文化五辰1808)」「廿三夜供養」「湯殿山」他の石塔,六手青面金剛?一基。
延暦十四795年創建の古社。石段手前左手に由来書看板があるので詳しくは写真を。
石段を上ると室町中期の楼門。屋根は後年銅板葺に改装されている。本殿も室町中期。
拝殿額に「正一位木幡社,日光山大明神」,これは神庫に保管されている花山院筆の神号奉額を模したもので額縁も似ている。神社でなく木幡社となっている点も同じ。書体は別様。「矢板市の文化財」No.44で確認できる。
ついでにNo.27は神像3躯,宝暦十四年1764の大国主尊,元久二年甲九月1205の田心姫(ただし甲が合わないので元久かは不明),味耜高彦根命。No.29日光山との縁で境内に保存されている元和二年1616の鉄灯籠。No.30は陶製狛犬。No31蝉錠。No.51太々神楽。No.45拝殿左側に架けられている「安政戊午歳九月」1858の和算扁額。No.70社叢。
和算額の左に「伊勢太々神楽圖」。拝殿正面に「安政七年申二月」1860の板絵。拝殿回廊突き当たりの対の板絵。他三枚の板絵はすでに絵柄は見えない。
右手の昭和14年の狛犬は子持ち,左は毬持ち。
本殿裏手に「無盡水」
ここには合祀社がなんと23社あると記録されているが,石祠の類はひとつもなく,稲荷社と八幡神社と思しき社が本殿裏手にあるのみ。高龗神は境内または境外社の祭神として記録されている。南の木幡332に鎮座する龍神神社の祭神かもしれない。
例祭:11月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 黒谷木幡日光大明神 木幡 高塩亘
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-4丁
矢板町大字木幡鎭座 郷社 木幡神社 祭神正哉吾勝々速日天忍穏耳命 相殿三座二荒山神社 祭神大已貴命事代主命田心姫命 祭日陰暦三月十五日九月九日 建物 本社間口三間奥行二間前九尺脇三尺の濱縁付栃葺 拜殿間口四間奥行二間半萱葺 神門間口三間奥行二間 鳥居一基高三間三尺間二間三尺 御饌所間口六間奥行二間 御旅屋間口三間奥行三間 寶物 赤鶴面一面 陶造犬牡牝二疋右大将源頼朝奉納 太刀一振萬治二年1659九月鹽谷住人大澤忠兵衛信勝の奉納 蛇臺石一箇古昔より本社に有て由緒奉納者不明 氏子六十六戸 社司塚原高廣同村同大字住
本社は桓武天皇の御宇延暦十四年795の創建にして征夷坂上田村麿の勸請なり明治五年郷社に列せらる
社記に曰く坂上田村麿は山城國宇治郡木幡大神を尊信すること年久し 時に延曆十一年蝦夷乱を起す 朝廷大伴弟麿を以て征夷大使とし坂上田村麿を以て征夷副使として蝦夷を征せしむ 此時田村麿木幡大前に戰捷を祈願し功績あらは一祠を建立せんと誓い東下す 時に遠江國の住人高島信保同信房兄弟軍に従ふ 同十年本郡峯村に宿陳し軍備を整ひ進み連戰年を度り遂に蝦夷を減し以て捷を奏す 同十四年凱旋の時又峯村に陳す 此地景を視て四神相應の地なれは又大神の御心にも叶ふべし宿願を果すは此地なりと峯村に本社を建て山城の國より木幡大神を遷座し此より峯村を改めて木幡村と號すと 后大同二年今の地に遷座して高島信房に命して神主となす 信房姓を改め高鹽と稱し本社に奉仕せしむ 今尚田村麿の自ら東夷の面を彫造し赤鶴の面と稱して本社に納めて藏せしむ 偶々旱魃の時には本社に詣て雨を祈る時此面を内川淵に浸入すれは必靈驗ありと云ふ 故に旱天の時は遠近の村邑より來りて祈雨するもの年に月に盛なり 朱雀天皇の御宇天慶三年940藤原秀郷平貞盛と相馬の將門追討の時宇都宮神社及ひ本社へ戰勝を祈り速に誅伐す此事朝廷に聞へて宇都宮神社へ勲一等を賜はり本社へは社領一千石を寄付せらる 此故を以て今尚宇都宮神社と本社には遊行の神事とて十一月より十二月の中の子午日の間は麻苧をうます針機をとらすと云ふ例あり 後冷泉天皇の御宇天喜五年1057鎭守府將軍源頼義其子八幡太郎源義家奥羽討伐の時本社より十有八丁東なる玉取と云ふ所に野陳し従者加藤景通藤原頼茂清原貞廣等を引率し一周日参籠潔斎して戰勝安寧を祈りたりと云ふ 今に野陳の跡に八幡太郎旗掛の松あり今も尚鬱々として繁茂せり 後鳥羽天皇の御宇建久四年1193四月源頼朝那須野に狩する時闔國に犬病發し國中に播染し士民大に困む 偶々右大將の卒ひし愛犬も傳染して狂犬となる 公大に患ひ該犬をして本社の瑞籬に繋き犬の病癒へんと國民の難を救護あらんことを祈願す忽ち靈驗ありて愛犬の病は平癒し國内の狂犬も治し患難消滅して士民安堵す 故に今に本社より病犬除の守符を出すは此緑なりと云 後徳川三代將軍家光公崇敬ありて慶安元年八月十七日を以て本村地内に於て高二百石の朱印を賜はり本社に日光二荒山神社を相殿に合祀し日光輪王寺宮を以て別當に附し崇祀せしむ 傍に神主高鹽氏社家頭塚原氏及ひ社家十四戸を置き平常奉仕せしむ 明和四年二月日光法親王宮の執奏により同年十一月四日を以て勅宣正一位を授けらる 神威赫灼として盛なり云云
社域三千三百六十三坪高丘の地にして古杉老檜蔚然として繁生し宛も仙境に在るか如し 華表には花山院の宸筆鹽谷惣社大明神の扁額并に神門には輪王寺宮宸筆正一位木幡神社日光山大明神扁額を掲く 殊に神樂の如きも古雅荘嚴一々古式に協ひ孟浪競新の者流と異にして人心を和樂感興せしむるに足る 又本社は陸羽街道及ひ日本鐵道の東北線路にあり矢板停車塲を距る八丁餘ありて參拜者の便ならさるはなし 故に日々賽するもの尠からすと云ふ
一の鳥居 下社
下社内の仁王像 二の鳥居
楼門
和算額
鉄灯籠 鉄灯籠解説
子持ち 稲荷神社 無尽水解説
左端金網が無盡水 銅板葺の境内社
西側の鳥居 珍しい形
広大な社叢

龍神神社

[りゅうじん神社]

栃木県矢板市・木幡1194

詳細不詳。木幡神社の南の田の中の小島に鎭座。朱塗りの鳥居,旗杭,覆屋があり,文字は何もない。
木幡神社にかつて合祀された可能性が高い。祭神は高龗神(たかおかみのかみ)なのではないだろうか。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 八竜神
 
 

川崎神社

[かわさき神社]

栃木県矢板市・川崎反町817

主祭神:天都瓊瓊杵命 配神:経津主命・武甕槌命
延暦二年783創建。星宮大明神と称し,維新に際し地名をとって川崎神社と改称。167坪。
承暦三年1079の拝殿は現存しないが承暦四年1080奉納の太刀が保存されているとんでもない神社。
なんと建久年中1190~99奉納の石鳥居の記録がある。明治三十五年にはあったので柱でも現存すれば県内最古の鳥居になるが未確認。ぜひ見てみたい。現在は石製両部鳥居に建て替えられている。
『下野神社沿革誌』に「本社勸請は伊泉五郎兼重」とあるのは「本社再建は」の誤記と推測する。
例祭:10月20日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 星宮大明神
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-5丁
矢板町大字川崎反町鎭座 村社 川崎神社 祭神天津瓊瓊杵命 相殿二座經津主命 武甕槌命 祭日九月十二日 建物本社間口三尺六寸奥行六尺六寸栃葺 拜殿間口三間奥行二間杉皮葺 末社二社 木鳥居一基 石華表一基建久年中1190~99鹽谷五郎兵衛入道奉納 石燈籠四基 寳物草鶴太刀一振承暦四年1080九月伊泉五郎奉納 古鏡一面正徳三年1713四月地頭戸田能登守奉納 氏子八十五戸總代四員 社掌檜山浪治同村大字同八番地住
本社勸請は伊泉五郎兼重にして往古屋宮大明神と稱せしか明治維新に際し川崎神社と改め村社に列せらる 拜殿の再建は承暦三年1079九月にして鹽谷五郎兵衛入道及ひ地頭戸田能登守の崇敬する所なり 社域百七十一坪高燥の地にて古杉森々として蓊欝し西南には古城跡ありて山水明眉の境なり
境林

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県矢板市・境林825

主祭神:経津主命・磐裂命・根裂命 配神:神武天皇・素盞嗚命
創建年等不詳。三月最終日曜日に塩谷町風見より江戸時代に伝わった神樂が奉納される。483坪。
石段を上がって右手に明治三十六年癸卯1903「神社合祀記念碑」。境林に鎭座した無格社の湯殿・八坂二社を村社星宮神社に合祀し,拝殿を新調したことが刻まれている。そのとなりは大正九年1920十一月「鳥居建設寄付連名」碑。
明治四十五年1912手水石に下記の『下野神社沿革誌』記載の社掌河井晴の名が刻まれている。
境内左手に文化十三丙子年1816二十三夜,その右に石宮。
例祭:10月30日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-6丁
矢板町大字境林鎭座 村社星宮神社 祭神經津主命 磐裂命 根裂命 建物 本社間口一間奥行一間二尺 拜殿間口三間奥行二間 華表一基 氏子二十五戸總代三員 社掌河井晴同村同大字住
本社創立は遼遠にして詳ならすと雖も往古より一村の總鎭守神にして社域百三十八坪を有し奥羽國道より入ること馬塲二百間字星宮に鎭し境内には老杉古樹亭々と高く聳ひ社宇宏牡にして嚴粛神寂ひて古雅に富む 奉仕は往昔より河井家にて別當なりしか維新后復飾して奉務怠たらす毎年九月十九日例祭を行ふ
 
二十三夜 右:合祀記念碑
手水石 社掌河井晴

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・塩田1292

主祭神:事代主命・大己貴命 境内社:琴平神社・稲荷神社
延暦二十年801嶽山別当十九代山本寛翁坊弥雄役が事代主命を祀ったことに始る。333坪。
例祭:10月29日前の日曜日 熊野講祭:二月第二日曜日 餅をついて供える
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 箒根大権現 塩田 村正
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-6丁
矢板町大字鹽田字宮ノ前鎭座 村社 箒根神社 祭神事代主命 祭日陰曆九月十八日十九日 建物 本社間口四尺奥行同 雨覆間口三間奥行同 拜殿間口三間奥行二間 華表一基 石燈籠二基 氏子三十三戸 社掌河井晴同村同大字住
本社創立詳かならす 社域三百十五坪にして境内には古杉蓊蔚と繁茂し神寂ひて雅致あり

八坂神社

[やさか神社]

栃木県矢板市・塩田552-1

主祭神:素盞嗚命
詳しいことは分からない。

熊野神社

[くまの神社]

栃木県矢板市・高塩807

主祭神:伊弉諾命・速日男命・事解之男命
創建年等不詳。
例祭:10月17日 熊野講祭:二月18日前の日曜日 餅をついて供える
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-6丁
矢板町大字高鹽字中ノ道鎭座 村社 熊野神社 祭神伊非冊命 速玉男命 事解男命 祭日九月十九日 本社間口五尺奥行六尺 華表一基 氏子十三戸 社掌河井晴同村同大字住
本社創立不詳にして社域百八坪坤方に山岳ありて東西北の三方耕田を周らし風色佳なり

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県矢板市・片俣608

主祭神:経津主命・磐裂命・根裂命
創建年等不詳。
例祭:10月中ごろの日曜日  熊野講祭:二月18日前の日曜日 餅をついて供える
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-6丁
矢板町大字片俣字澤中鎭座 村社 星宮神社 祭神經津主命 磐裂命 根裂命 祭日陰曆九月十九日 建物本社間口四尺奥行五尺 雨覆三間四方 拜殿間口三間奥行二間 鳥居木造一基 氏子十八戸 社掌河井晴同村同大字住
本社勸請年月詳かならす 社域百九十八坪本社南に向へ後に高山を控へ南熊野山に相封し景趣頗る佳なり

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県矢板市・館ノ川323

主祭神:経津主命・磐裂命・根裂命
創建年等不詳。
例祭:10月29日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 青柳大明神 五月女 正福寺 →川崎反町の龍泉寺付近に正福寺跡があり薬師堂が建っていたので,とりあえず当社に当てておく。
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-6丁
矢板町大字舘野川字星宮鎭座 村社 星宮神社 祭神經津主命 磐裂命 根裂命 祭日陰曆九月廿九日 建物本社間口三尺奥行五尺 雨覆三間四方 石鳥居一基 氏子十九戸 社掌河井晴同村同大字住
本社創建年月詳ならす 社域百七十七坪高燥にして鹽の谷の古城趾東北に接せり

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県矢板市・館ノ川248-1

主祭神:倉稲魂命
詳しいことは分からない。
塩釜

鹽竈神社

[しおがま神社]

栃木県矢板市・上町6-11←矢板697

写真提供:Roku Jiiさん

主祭神:塩土翁命・武甕槌命・経津主命 配神:天照皇大神・素盞嗚命・別雷神・迦具土命・事代主命・少彦名命・大物主命 境内社:出雲社 厳島神社
『下野神社沿革誌』記載の創立年は200m西から現在地に遷宮した年で,それ以前にシオガマのにごった須釜あたりにすでに鎭座した。須釜は下塩田の東の幸岡付近。
塩土老翁が当地で山塩または温泉からの製塩方法を伝授し,その後宮城塩竈で海水塩の製塩を教えたと伝わり,伊達政宗が当社に参詣して宮城の塩竈に分霊を祀ったと伝わるので,「日本一社下野國鹽竈神社」と称した。
宮城では平安初期820頃編纂の弘仁式主税帳逸文に「鹽竈神を祭る料壱萬束」と記録された縁起を載せている。すると当社は奈良から平安頃の創建ということになる。
当社の方は天武天皇or清原親王‏or草壁皇子の「塩のやの八塩の里の/うちの貢物思ひは/思えは遠く来つる/みつるもの哉」をあげているが検証できない。
当地で病に伏せていた勝海舟が明治三十二年社額を揮毫して奉献した。
明治四十年1907以下の社を合祀
  神明宮 八坂神社 琴平神社 加茂神社 箒根神社
例祭:10月20日以降の日曜日
矢板市観光協会の塩竈神社紹介
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-7丁
矢板町大字矢板鎭座 村社 鹽鼈神社 祭神武甕槌命 經津主命 建物 本社 拜殿明治年間新築 木鳥居一基 石燈籠五基 氏子百二十餘戸 社掌塚原高廣同町大字木幡住
本社創立は天正八年1580にして九月の創立なり 社域百二十九坪平坦の地にして境内には古杉亭々と高く聳ひ若櫻を植ゑ春は萬櫻乱發し艶雲香雲凝つて流れす洵に絶佳と云ふへし
中央白地:勝海舟筆
神楽殿 神輿庫
神輿

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県矢板市・下太田86

写真提供:Roku Jiiさん

主祭神:譽田別命
元弘三年1333頃に祀られた枇杷ヶ原村の個人の氏神を村の守護とした。
下太田はもと矢板村,上太田はもと泉村だった。
例祭:9月9日以前の日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-7丁
矢板町大字下太田鎭座 村社 八幡宮 祭神譽田別命 建物本社間口二尺八寸奥行二尺六寸 末社一社 氏子二十八戸 社掌塚原高廣同町大字木幡住
本社は字枇杷ヶ原に在りて百十四坪を有せり

北野神社

[きたの神社]

栃木県矢板市・下太田671

主祭神:菅原道真公
承応二年1653創建と伝わる。文化年間1804~18に本殿を改築。94.76坪。
例祭:3月25日前の日曜日

住吉神社

[神社]

栃木県矢板市・中587

主祭神:中筒男命
源頼純が11世紀初めに御前原城に勧請。落城とともに変遷を経て現在地に遷宮。
例祭:3月28日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-7丁
矢板町大字中鎭座 村社 住吉神社 祭神中筒男命 建物本社間口五尺奥行一間 拜殿間口三間奥行一間半 氏子十七戸 社掌塚原高廣同町大字木幡住
本社創立不詳 再築は寛政五丑年二月廿日にして社域二百四十六坪字高田入に在り

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県矢板市・倉掛885-2

主祭神:経津主命・磐裂命・根裂命
創建年等不詳。四斗薪にあったが大正十二年1923現在地に遷宮。600坪。『下野神社沿革誌』記載の28坪は四斗薪に鎭座したときの境内地。
例祭:10月中旬の日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-7丁
矢板町大字倉掛鎭座 村社 星宮神社 祭神磐裂命 根裂命 建物本社間口一間半奥行一間一尺 氏子二十六戸 社掌河井晴住所同上
本社創立不詳 社域二十八坪字四斗蒔にあり 境内には老樹亭々と高く聳ひ風致愛すヘし

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・土屋726

主祭神:大己貴命・事代主命・豊城入彦命
延暦十年791宇都野の嶽山箒根神社より勧請。270坪。
例祭:10月9日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-7丁
矢板町大字土屋鎭座 村社 箒根神社 祭神少彥名命 建物本社間口二尺五寸奥行同 拜殿間口三間半奥行二間二尺 氏子三十七戸總代三員 社掌橋本喜和目同郡泉村大字山田住
本社創立は延暦十年791九月にして社域百八十九坪字森の上にあり

加茂神社

[かも神社]

栃木県矢板市・土屋713-9

主祭神:別雷神
詳しいことは分からない。

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・針生718

主祭神:少彦名命 配神:天照大神・軻遇突智命・居森神 境内社:天満宮・琴平神社
白鳳三年674!宇都野の嶽山箒根神社の奥宮と推定する黒嶽山神社より勧請と伝わる。『下野神社沿革誌』は宝亀元年770創建説を載せている。
嶽山箒根神社が記録されるのが元慶元年877頃なので,それより100年前の言い伝えで,少しやりすぎかもしれないが,相当の古社なのだろう。
例祭:10月29日前後の日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-7丁
矢板町大字針生鎭座 村社箒根神社 祭神少彥名命 建物本社間口二尺五寸奥行同 拜殿間口四間奥行二県半 末社二社 石燈籠五基 華表一基 氏子二十三戸
本社は寶龜元年770九月の創立にして社域四百三十三坪高陵の地にあり 石磴四十九階躋りて拜殿に到る 境内には古杉老樹高く聳ひ眺矚絶佳なり
芭蕉

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県矢板市・扇町2丁目14-2-1

主祭神:倉稲魂命
矢板中央高校の南,昔大興電気工業の工場があった。鮮やかな朱色の鳥居と本殿。
境内には芭蕉の句碑が保存されている。
「芭蕉翁」「寛政三年1791十月十二日」「願主果玉房十只」の文字が見える。大正五年1916に土台が修復されている。字の消えた看板が足もとに置いてある。かつては「原中や 物にもつかす 啼く雲雀」と書かれていた。続虚栗に収録されている。
大正五年1916手水石。昭和四十年1965石燈籠。昭和四十五年1970玉垣。平成四年1992一の鳥居。
本殿 寛政三年
芭蕉翁 句が書かれていた看板
昭和四十年1965 大正五年1916 昭和四十五年1970
下の方に「願主果玉房十只」

鹿島神社

[かしま神社]

栃木県矢板市・鹿島町11-14

主祭神:武甕槌命・倉稲魂命 境内社:鹿島神社・稲荷神社・大杉神社・白髭神社
寛永四年1627創建。 延享二年1745石燈籠。
『鹿沼聞書』では鹿島と稲荷がひとつに植字されている。
例祭:12月15日 初午祭:二月初午 天王祭:7月26-27 風祭:9月上旬
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 鹿島大明神正一位稲荷大明神 富田 長福寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-8丁
矢板町大字富田鎭座 村社 鹿島神社 祭神武甕命 建物本社間口四尺一寸奥行四尺九寸 末社七社 氏子三十六戸 社掌塚原高廣同町大字木幡住
本社は寛延四年1627三月常陸國鹿島神宮を奉遷せしものにて京都本山繹院大僧正の勸請なり 社域五百十二坪字後原にあり

劍神社

[つるぎ神社]

栃木県矢板市・幸岡939 字剣下

主祭神:日本武尊 配神:大日孁貴命・事解之男命・国常立命・火産霊命・素盞嗚命・倉稲魂命・伊邪那岐命・猿田彦命・速玉男命・木花開耶姫命 境内社:八幡神社
創建年等不詳。宝物に備前長船兼光作の脇差。
例祭:10月15日
下記の村名「高内」は不明だが劍山大明神と記述の順から判断した。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 剣山大明神 高内 密乗院
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-8丁
矢板町大字幸岡鎭座 村社 劍神社 祭神日本武命 建物本社間口五尺七寸奥行一間半 氏子六十五戸
本社創立不詳 社域二百四坪を有し字劍下に在り

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・荒井292

主祭神:大已貴命・事代主命・豊城入彦命
創建不詳ながら延長二年924宇都宮二荒山神社より勧請と伝わる。享保六年1721の棟札あり。
例祭:10月15日前の日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 箒根権現 荒井 東光寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-8丁
矢板町大字荒井銀座 村社 箒根神社 祭神大已貴命 事代主命 少彥名命 建物本社間口四尺八寸奥行一間半 拜殿間口三間奥行二間 末社五社 氏子二十一戸 社掌塚原高廣同町大字木幡住
本社創建不詳 社域二百九十坪字宮の近所に在り

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県矢板市・成田1312

主祭神:譽田別命 配神:大己貴命・少彦名命 境内社:八坂神社
文明年間1469~87の創建。成田1406に公民館。
例祭:4月3日 7月14日八坂神社神輿渡御
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉八幡両社 成田 高野土佐
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉八幡両社 成田村鎮座 祭主齋藤氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-7丁
野崎村大字成田字八幡鎭座 村社 八幡宮 祭神譽田別命 祭日陰暦九月十九日 建物本社一間四方檜綿葺 拜殿間口ニ間奥行一間半萱葺 末社四社 木鳥居一基 氏子五十戸氏子惣代川上二一郎薄井石平小川榮治喜佐美慶太 社掌高野重明仝村大字仝住
本社創立は文明年間1469~87にして鎌倉の人高野貞之と云へるもの故ありて當地に來居し或時重病に罹り危篤なりし時自ら古郷なる八幡宮に病平癒を祈願せしに忽ち靈驗ありて病快癒せり 故に報賽として鎌倉八幡宮を遷座し一祠を建て勸請せしか濫觴なり 後村民來て崇敬し一村の產土神と稱し爾來社殿の建修及ひ祭典費に至るまて氏子村民之を負担し隆盛に至る 明治五年郷社に定めらる 仝十年八月行政區割の都合により村社に列せらる 社域二百三十一坪境内小丘にして老松古杉天に聳ひ幽邃にして雅致あり

八坂神社

[やさか神社]

栃木県矢板市・成田821

主祭神:素盞嗚命
不詳。鳥居の手前に建っているので境内社?石鳥居の奥に別の本社か。

石宮

[?神社]

栃木県矢板市・成田1406

八坂神社の南方の成田公民館に石宮がある。

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県矢板市・豊田315

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:事代主命 境内社:熊野神社・日枝神社
那須与一の兄の九郎朝隆が文治三年1187に居宅付近に勧請。
稗田村だったが明治九年1876に豊田に,野崎村豊田は昭和二十九年1954矢板町になる。
例祭:10月17日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-8丁
野崎村大字豊田字湯泉鎭座 村社 湯泉神社 祭神 大巳貴命 少彦名命 祭日陰暦九月十九日 建物本社間口九尺四方栃葺 拜殿間口三間奥行二間萱葺 木鳥居一基 氏子七十戸總代四員關谷伊佐次仝文彌君島常三郎 社掌關谷喜一郎仝村仝大字住
本社は薭田九郎朝隆の勸請にして文治三年1187の創立なり 後那須家代々崇敬の社なり
社傳に曰く天治年間八溝山に岩嶽九の強賊在りて人民を悩す事夥し 帝叡聞に逹し相撲の須藤貞信も自ら上奏す 茲に於て貞信に下命あり 天治二年十二月二日相摸を發し下野に着し那須郡に陣し八溝山に向ひ岩嶽九を速に討平けたる功を以て下野那須權守に任せらる 後六代を經て資隆に至り男子十一人あり 即九男資隆を仝郡薭田村(明治九年薭田村を改め豊田村と稱す)に封し薭田九郎と稱し本村中央なる寄居に舘を築き當舘鎭護の神として舘の南方三町の所に湯泉神社を勸請せり 其後薭田家興亡の浪に動揺せらる 後三百九十年を經て天正十八年福原資孝の領する所となり寛文十二年1672十月本社を崇敬して神田三反十六歩を寄附せられ明和九年九月拜殿を再建せしも本社の再築に至さるを氏子ー同遺憾とせしも更に明治三十­三年九月を以て壯麗なる本社拜殿を改築せしは氏子一同の盡力なりと云ふ
社域三百四十四坪平坦の地にして古杉老松森々と聳ひ神寂ひて雅致あり
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 薭田村鎮座 祭主高野氏ナリ

八龍神社

[はちりゅう神社]

栃木県矢板市・豊田1338

主祭神:?
三王神社の北にあるようだ。

三王神社

[さんのう神社]

栃木県矢板市・豊田1363-3

詳しいことは分からない。

金毘羅神社

[こんぴら神社]

栃木県矢板市・豊田1251

主祭神:大物主命
詳しいことは分からない。
湯泉神社

温泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県矢板市・豊田1001

主祭神:大己貴命・少彦名命
不詳。佐久山のすぐ西。石段を上った右手に明和元年1764庚申供養塔,萬延元年1860庚申塔,弘化三年1846石燈籠,年代不明のなんとか念仏供養塔,湯殿山・月山・羽黒山,霊符?尊神,二十三夜塔など。
もうひとつ石段を上ると拝殿。左手に鳥居のついた不明の境内社。右手に太神宮。不明の石宮。
鳥居額は「温泉神社」
矢板市営バス田谷
生駒

生駒神社

[いこま神社]

栃木県矢板市・沢1029-2

主祭神:豊受姫命
沢の馬市碑がある。いちばん大きいのは「勝善神」となりに生駒神。明治三十八年1905石燈籠。明治四十四年1911建立の天保八年1837生れの古澤次郎平翁顕彰碑。
湯泉神社

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県矢板市・沢351

写真提供:Roku Jiiさん

主祭神:大己貴命 配神:愛宕神社・八坂神社
那須与一の兄の沢村七郎満隆が正治年間1199~1201に創建。幕末に二度遷宮をして慶応年間1865~68に現在地に遷座。
例祭:旧暦9月9日 7月14日神輿渡御
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 沢 斎藤左近
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-8丁
野崎村大字澤鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 祭日陰暦九月九日 建物本社間口三尺五寸奥行五尺 拜殿間口二間奥行九尺 鳥居一基 氏子四十九戸總代三員白石久雄伊藤喜一郎蓮實市郎平 社掌齊藤津守仝村仝大字住
本社は正治年閥の創立にして領主澤村七郎滿隆の勸請なり 神職は往古より齊藤家代々祠官たり 本社は弘化年問まて字班の目に鎭座ありしか祠官齊藤出雲守代邸内に移遷し後故ありて舊境内に復鎭す 慶應年間現今の地に奉遷す 社域三百三十六坪高燥の地にして境内には古杉老樹蔚蒼として頗る雅致あり
湯泉神社
沢村城築城八百年 八坂神社
愛宕山 愛宕神社
猨田彦之大神
八幡神社

八幡神社

[はちまん神社]

栃木県矢板市・沢719

主祭神:譽田別命
創建年は不明。
平成三年1991十一月建立の石鳥居。手前の朱色の鳥居は個人の神社。
八幡山の参道を登ると木立に囲まれて石宮が鎮座する。正面左手が八幡神社。右手は神日本磐余彦命(昭和62年の社号標表記は神倭伊波禮毘子命)を祀る橿原神社で神武様と呼ばれている。石宮には「橿原宮」と刻まれている。
手前左手に「金毘羅大神」,大正七年1918建立の「金刀比羅大權現」
東方の澤観音寺の守護神が祀られているとの未確認情報があり,この金刀比羅神がそれか,あるいは脇の白い石祠か。
記念碑に「平成三年十一月賀茂神社建設事業の一環として…模様替え」とある賀茂神社は見つからない。
境内右手に乃木希典揮毫の忠魂碑。
北方に箒川を見下ろす。
例祭:4月3日
八幡神社
橿原神社 由緒
金毘羅大神 金刀比羅大權現
寄付芳名碑 旧石宮か 忠魂碑
  箒川を見下ろす
南を見下ろす 奥の山中に鎮座

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県矢板市・沢1332

主祭神:譽田別命
八幡大權現と称した。詳しいことは分からない。
石鳥居。


▊塩谷郡・片 岡 村 『下野神社沿革誌』巻七-8丁(明治三十五年1902)
本村は安澤,岡,越畑,松島,乙畑,大槻,石關,玉田,山苗代の舊九村を合せしものにて其幅員東西凡二里南北凡一里 地勢東に安澤長峯の山脈重畳起伏し西に高原山脈あり延て南に走り地自ら峻險なり 南に荒川あり又内川ありて安澤と越畑の間を南流す 村民朴直にして能く農耕に勤勵す
本村道路に至ては國道及ひ日光街道あり又東北線の停車塲ありて徃來交通に不便を感することなし
古來の沿革を尋ぬるに徃時安澤は旗下の釆地にして松島乙畑大槻山苗代石關越畑等は共に喜連川藩領に其他は佐倉宇都宮藩及ひ旗下の領邑に属し各村其領主を異にせしも維新后共に栃木縣所轄となり第三大區二小區に編入せられ其後多少の變遷を經て後又一戸長役塲の支配となり次て現時の自治區をなすに至れり
本村には有名なる玉田神社外村社九社あり 氏子戸數四百三十戸人口三千二百三十餘人を有す
勝善

生駒神社 勝善神社

[いこま・しょうぜん神社]

栃木県矢板市・玉田169

主祭神:豊宇気姫命 勝善親王・瓊瓊杵能命・猿田彦命 境内社:大山祇神・素盞嗚尊・椿大神・日吉大神・媼神様
建久四年1193創立。道沿いの目立つ看板に「勝善神社入口」とあり石標に「日本三勝善の一,玉田勝善神社参道」とある。看板脇に鎮座するのは「津島神社」で,その左脇の昭和七年1932社号標は「指定村社生駒神社」である。津島神社は津島牛頭天王で素盞嗚尊を祀る。
ここは正式名称が「生駒神社」で,本殿は左手の山の中に鎮座する。もともとは「勝善神社」と称し明治元年1868に「生駒神社」と改称した。いまは古称の「勝善神社」の方が有名になった。
山道の参道は車でも行けそうだが歩いてみた。いい運動になりそうなところで拜殿の屋根が見えてくる。ほどなく大鳥居が聳え広い境内に立派な社殿が現れる。右手には神楽殿。
那須の殺生石になる九尾の妖狐退治伝説の伝わる地で,詳しくは下記の『下野神社沿革誌』を。御祭神が豊受姫命である理由も明記してある。
勝善親王は牛馬を愛したので,農耕馬の休日である旧暦の「六月のお八日」には馬の祭りが行われた。また親王の命日旧暦正月28日には遠近の馬が吹流しや鈴をつけて多数参拝した。拝殿には昭和四年1929矢板馬車組合一同,昭和二年1927宇都宮駅南菊池運送所馬車一同,昭和十四年1939片岡馬車聯合組合,昭和三年1928宇都宮合同運送株式会社馬車組合創立記念などの額が奉納されている。間口一間一尺の御厩[うまや]があった。
勝善神社は珍しい社号で栃木県では芳賀町西高橋に鎭座したとの記録があるのみ。しかし「勝善神」と刻まれた石塔は栃木県には無数にあり,馬頭尊より多いかと思われるほどだ。「勝善神」石塔は当社を発祥とするだろう。
読み方は確定できない。玉田では[しょーぜんさま,そーでんさま]と発音するし,境内の由緒書には[ショウゼンサマ][カツヨシ・シンノウ]のルビがついている。[そうぜん]は蒼前からの附会の可能性が高そうだ。当社は勝善親王が起源なので地元の発音のように素直に音読みして[しょうぜん]でいいだろう。
大槻の石上神社では一條權守「勝善」,地頭職で九尾狐退治の伝説が伝わる。
境内社としては宇都宮市細谷町の雷電神社に勝善神社,祭神としては栃木市高谷の日枝神社祭神が勝善神で,ほかには見当たらない。
大槻の石上神社には当社より150年前の妖狐退治の伝説が伝わる。
嘉永四年1851石燈籠台座に馬の浮彫り。大正十一年1922生駒神社碑は高於菟三撰文,保田義嗣謹書,戸田忠友篆額でくっきりと全文が読める。妖狐横行から社殿造営,碑の建立経緯が刻まれている。
明治四十二年1909生駒神社と昭和七年1932鳥居改築記念碑
拝殿右手に大山祇神社,中に馬頭観世音となんとか大権現の木札が見える。
そのうしろの祠には神像が祀られているが,木札が読めない,女偏が見えるので媼神か?
道路沿いの津島神社脇に寛政四年1792十九夜,金精さま。
例祭:旧暦1月28日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-9丁
片岡村大字玉田字社城續鎭座 村社 生駒神社 祭神食保命 相殿一座9 祭神勝善親王靈 祭日陰曆正月廿八日二月初午日五月廿八日 氏子八戸總代三員 社掌玉鹽綱十郎同村大字同住 建物本社間口二間半奥行三間木羽葺 祈年殿間口二間奥行二間萱葺 末社一社 木鳥居一基 石燈籠二基 御厩間口一間一尺奥行一間半杉皮葺 制札一基明治三十年1897一月建設
社傳に曰く 近衛天皇の御宇白面金毛九尾の悪狐宇宙間に横行し當國當郡大槻村に飛來り槻の大木に匿籠し人民を禍すこと夥多にして止ます依て 鳥羽天皇の皇子勝善親王に勅し追撃せしむ 親王士卒を率ひて同郡玉田村に下向し彼の大樹を伐らしむるに一夜の中に其伐口埋塞して伐倒すること能はす 之に依りて親王伊勢の豊受大神に祈願しけれは其夜夢に伐たる小屑を燒却すヘしと神告あり 依て教の如く燒捨つれは遂に大樹も忽ち倒れ悪狐は何處にか飛去りぬ 勝普親王神助により其功を奏したるを以て後建久四癸丑年1193正月廿八日を以て伊勢外宮豊受大神宮を遷座し親王永く玉田の里に止り遂に薨す 因て親王の靈を合祀し是れより勝善神社と尊稱し衆庶崇敬の社なり 後明治元戊辰年勝善神社の舊號を改めて生駒神社と號す
神職は往古より齋藤家にて代々連綿として奉仕す 社域五百五十八坪高燥の地に鎭し境内には古松老杉縦の樹色と若木の葉光と相映し頗る深邃にして神寂ひて雅致あり
編者案するに御厩は勝善親王愛する所の名馬を祀りし處ならんか 世人今尚牛馬の守護を祈るは祭神に由縁もあるへけれと又此馬靈の靈験著しきを哉
昼なお暗く 千木つきの立派な本殿
拝殿額
拝殿額
拝殿内
拝殿内
由緒書 嘉永四年1851石燈籠
石燈籠台座 生駒神社碑 手水舎
左:明治42年生駒神社 右:昭和7年鳥居改築記念碑
神楽殿 昭和三十三年1958額
大山祇神社 大山祇命 右:馬頭観世音
媼神?
道路から見える入口 日本三勝善の一 昭和七年1932社号標
津島神社 津島神社本殿 寛政四年1792十九夜
金精さま ここを上る
大白

太白神社

[たいはく神社]

栃木県矢板市・石関351-1

主祭神:経津主命 配神:大山祇神・愛宕大神 境内社:湯殿神社・愛宕神社・八坂神社
創立年等不詳。元文二年1737以前の創建。なかなか立派な社殿で拝殿と千木つき本殿の屋根はシルバーに輝いている。欄干の朱色も鮮やか。842坪の境内は整備も行き届いている。
社号の文字は「太白」で,越畑の方は「大白」を使用しているが祭神は同じで経津主命。『下野神社沿革誌』ではいずれも「大白」で記録。
昭和六年1931石鳥居。本殿左手に多数の石塔と祠。左端が木製祠でとなりが石宮。台座に三猿の明和元庚申年1764六手金剛,文化十五戊寅歳1818庚申塔,嘉永三庚戌1850二十三夜塔,文化十五戊寅歳1818湯殿山。旧鳥居柱が保存され,その右に文政十二己丑年1829牛頭天王と刻まれた石燈籠二基と八坂神社。
本殿右手に推定愛宕神社,これは古そうだ。
鳥居脇に寛政十二庚申年1800馬頭観世音,明治三十二年1899熊野山。
境内のすぐ裏手に新幹線が走っている。新幹線を挟んだ北西に地蔵堂。
例祭:9月19日前の日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 星宮大明神 石関 能満寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-11丁
片岡村大字石關鎭座 村社 大白神社 祭 經津主命 祭日陰暦九月十九日 建物本社間口三尺奥行四尺 雨覆間口二間奥行二間 拜殿間口三間奥行二間 鳥居一基 氏子二十七戸總代三員 社掌同上
本社創立遼遠にして詳かならすと雖も元文二年1737の再建にして喜連川家代々崇敬の社にして明治五年1872村社に列せらる 社域九百坪平坦なる地にして風光頗る深邃なり
  左:寛政十二年1800
石関公民館 右奥に神庫
拝殿左手
拝殿右手 石塔多数
明和元庚申年1764 旧鳥居柱
愛宕? 千木つき本殿
付近の地蔵堂
御本尊 新幹線

加茂神社

[かも神社]

栃木県矢板市・片岡1704

主祭神:別雷神 配神:豊受姫命・大山祇命・木花咲耶姫命・武甕槌命・倉稲魂命・迦具土命
延喜十二年912鎭守府将軍藤原利仁が高座山の賊徒退治に際し加茂大神の夢告により討伐なった報賽として創建。
明治三十八年1905湯殿神社,浅間神社,磯辺神社,愛宕神社を合祀,明治四十三年1910稲荷神社を合祀。
例祭:4月13日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-9丁
片岡村大字岡鎭座 村社 加茂神社 祭神 別雷命 祭日陰暦三月十三日 建物本社間口一間奥行一間 拜殿間口五間奥行三間 木鳥居一基 氏子百三十三戸 社掌伊東健吹同村大字同八十七番地住
本社剏宮は延喜十二年912の夏にて鎭守府將軍藤原利仁公の勸請なり云云
社傳に曰く延喜十二年912下野國高座山の賊魁藏宗藏安黨を結ひ郡邑を掠め貢物を奪ふ 朝廷利仁に命して賊を討たしむ 鎭守府將軍勅を奉して東國に下向し鹽谷郡に到る時に賊防禦の術嚴しく討つ能はす 又岡の城主岡民部も賊に降り先鉾として進み勇を奮ふて防き戰ふ 故に賊黨の勢へ騎虎の如く益々猖獗なり 將軍思ふに我か計謀にては數月を經れとも治定せさるへしと 此時神助を仰かさるに如くはなしと假に神檀を設け山城國加茂大神を招奉り祈願せしに時方に盛夏の或夜半俄に天曇り大雪となり拂暁に到りて止む 將軍士卒に命して軍備を整ひ造り設けありし橇に乗らしめ進め進みて賊を攻む 賊凍餒して戰ふ能はす遂に降り或は討死して亡ひける 將軍諸將を本陳に集め戰勝を祝し諸將を慰勞す 又將軍曰く此の強賊を亡せしは全く加茂大神の擁護なりと諸將士卒に語る やかて懐中より錦囊を採出し加茂大神の御守を神體として祠を建て祀りしか濫觴なり 斯る功績ありし大神故郷民らか益々尊信して一村の鎭守神となす 后正保元年1644に至り前岡後岡のニヶ村と分れ此より一村鐵守の名稱をも癈れたるに王政維新に又前后岡合併して岡村となれり 明治五年岡村の村社に定めらる云云 社域四百十七坪丘陵に鎭して東には内川の淸流淙々として鳴り以て晝夜を止めす 北は高原山に望み西は黑髪の高峯層々翠を重ぬ 境内には老杉古樹蓊蔚にして風光頗る佳なり
八幡

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県矢板市・片岡2095-77

主祭神:譽田別命・素盞嗚命
創建年月不詳。明治初期に八幡神神社と津島神社を合祀して八幡宮と称した。拝殿内に昭和四十九年1974五月十九日に書かれた八幡宮新築遷座額が掛けられている。明治初年に八幡神社と津嶋神社を合祀し大正九年1920十一年に改築,昭和四十八年1973九月現在地に遷宮し新社殿を造営したことが書かれている。
拝殿右手に境内社の稲荷神社。
昭和六十三年1988建立の朱鳥居右手に八幡宮遷座記念碑。
鳥居左手に明治四十年1907甲子塔。
昭和九年1934石燈籠。
例祭:9月19日
 
拝殿内 新築遷座記念額
千木つき 稲荷神社
八幡宮遷座記念碑 明治四十年1907甲子塔
明治四十年1907

琴平神社

[ことひら神社]

栃木県矢板市・片岡2071

主祭神:大物主命
詳しいことは分からない。

鹿島大神宮

[かしまだいじんぐう]

栃木県矢板市・片岡634

主祭神:武甕槌命
詳しいことは分からない。

日枝神社

[ひえ神社]

栃木県矢板市・片岡855

主祭神:大山咋命
詳しいことは分からない。

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県矢板市・安沢2616 あんざわ

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:菅原道真公・少彦名命
藤原資家すなわち須藤権守貞信が創建。天治1124~26頃には湯泉神社が南西2キロの川西に鎭座したが,明治四十三年1910現在地天満神社境内に遷宮し八坂神社と津島神社を合併して社号を湯泉神社とした。
例祭:9月29日前後の日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-10丁
片岡村大字安沢鎭座 村社 湯泉神社 祭神 大己貴命 少彥名命 建物本社間口一間奥行二間石葺 華表一基 氏子百十四戸總代三員 社掌松井一同所住
社傳に曰く本村は徃古那須郡に屬せしか藤原貞信始めて那須の地頭職に補せられし時郡界を正ふし那須温泉神社を勸請し後世郡界の狐疑なからん事を示すと云云 故に本社は須藤權守貞信の創建にして最も古社たり 社域九十四坪を有し字川西に在り

熊野神社

[くまの神社]

栃木県矢板市・乙畑1077

写真提供:Roku Jiiさん

主祭神:伊邪那美命 配神:別雷神・木花咲耶姫神・倉稲魂命
弘仁十三年822創建。縁起は下記の『下野神社沿革誌』を。
明治四十二年1909加茂神社,羽黒神社,浅間神社,田神社を合祀。
例祭:10月19日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 熊野大権現 西岡乙畑 大林寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-10丁
片岡村大字乙畑鎭座 村社 熊野神社 祭神伊弉諾命・伊弉冊命 祭日陰暦九月十九日 建物本社間口六尺奥行五尺 雨覆間口二間奥行二間 拜殿間口三間奥行二間半 木鳥居一基 氏子五十戸 社掌建惟正喜連川町百四十番地住 本社創建は弘仁年中にして拜殿の再建は延元二年1337なり 后應永十九年1412九月九日を以て本社再建す云云
社傳に曰く本村は荒川の沿岸にあり 川中に釜ヶ淵と稱する所ありて毎夜白氣立登り恰も白幡の如くにして鳴り響き村民怪み恐れ熊野大神を信仰し神託を請へしに告て曰く年經し大蛇此淵に斃れて悪氣怪をなすと 荒川の上流下流の一見せる所此氣を祭りなは其怪止むべしと詑宜あり 故に本村内坊山と云ふ高燥の地に祠を立て龍神と祀り/今無格社毎年十一月十五日例祭なり/しに怪異忽ち止む 村民の平安五穀も成熟せり此れ偏に熊野大神の御靈験なることを感し村民等代參を以て紀州熊野本宮へ詣てヽ御神幣を乞へ奉遷し一村の鎭守神と崇敬せしか濫觴なり 后喜連川領主も代々崇敬せりと云云 社域六百九十坪淸洒の境地にして社殿宏壯なり 又境内より淸泉漫々として湧出し如何なる旱魃にも絶ゆることなし

金刀比羅神社

[ことひら神社]

栃木県矢板市・乙畑1285

主祭神:大物主命 配神:大日孁貴命 境内社:龍神社
弘仁十二年821創建の古社。83坪。
明治四十二年1909字中河原街道上に鎭座した大日孁貴命を合祀。
龍神社には荒川釜ヶ淵の龍蛇を祀る。
例祭:6月10日

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県矢板市・矢板市・乙畑1632

主祭神:倉稲魂命
寛文十二年1672創建。矢取り稲荷と呼ばれる。87坪。
例祭:10月19日前後の日曜日
石上

石上神社

[いそのかみ神社]

栃木県矢板市・大槻1706

主祭神:布都御魂大神・貴布禰大神 配神:武甕槌命・大山祇命・木花咲耶姫命・大山咋命・少彦名命・玉依姫命・菅原道真公 境内社:金毘羅神社・稲荷神社
永延元年987地頭勝善が大和国山辺丹波の石上神宮より勧請。地頭「勝善」の名のとおり九尾の狐退治伝説が伝わる。『下野神社沿革誌』では一條權守勝善としている。矢板玉田の勝善神社では近衛天皇第三皇子勝善親王とされる。
玉田では近衛天皇の頃1142-55,当社は一条天皇986-1011の頃の妖狐退治で150年ほどの差がある。那須芦野の方では鳥羽院没後領主須藤権守貞信が退治したことになっている。須藤權守貞信が八溝山の兇賊岩武丸を退治したのは天治年中1124~26なので玉田の説の年代に近い。下記の『下野神社沿革誌』は久寿年中1154~56としている。当社は一条でなく二条天皇1158-65の頃だと,まあ辻褄が合う。
しかしながら当社が保管する一條家家系図には花山院の御代の金毛白面九尾退治が記録されているので一条天皇の御代になる。1000年頃に当地で退治したはずが逃げ延びて150年後に玉田に再来したのだろうか,空想の九尾でもあるので今となっては混濁していて当然。玉藻の前九尾狐の話はさらに下って鎌倉末から江戸初期にできた物語。
東南400mに妖狐退治のとき兵士に食べさせるために使った竃石が残っている。右隣りは大善寺。
拝殿内に大きな社号額が掲げられ,背後の板に由緒が墨書されているが,暗くて読めない。格子が小さくガラスも嵌められていて撮影もうまくいかなかった。写真は無理やり補正したもの。
昭和五十四年1979社号標。後ろの合掌像は享保十九歳1734。明治九丙子年1876熊野神社。
鳥居左手に天保十四癸卯歳1843大黒天,左端は読めず。
大正九年1920日枝神社を合祀。
例祭:11月3日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 石上大明神 大槻 一条市正
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-11丁
片岡村大字大槻鎭座 村社 石上神社 祭神布留御魂命 祭日陰暦九月十九日 建物本社間口八尺奥行一丈一尺 雨覆間口三間奥行三間 拜殿間口三間奥行二間半 木鳥居一基 氏子五十戸總代三員 社掌建惟正喜連川町百四十番地住
本社創建は永延年中987~989にして一村の鎭守神と尊敬す 后再建年月詳ならす明治五年村社に列せらる 神職は往古より維新の初まて一條家にて奉祀せり云云 社傳曰く久壽年中1154~56那須野の狐狩の時一條權守勝善か嘗地に對陳し本社に祈願して擁護を受けしと云ふ 今尚本社の巽方三町計隔りたる畑中に釜石と/円みっつ圖之如し/稱するものありて則ち一條權守か卒たる人數の食物を炊事せし所にして偶々此れを取り破らんとすれは其人に障災ありとて土人猥に手を觸ることなしと 又一條氏は勝善の末裔なりとか云 社域三百九十九坪高燥の地にして石磴五十階を躋り眺望絶佳なり
  拝殿内
御神木 樹齢350年以上
拝殿右手
拝殿左手
 
大正乙丑十四年1925 鳥居右手 鳥居左手
日枝

日枝神社

[ひえ神社]

栃木県矢板市・大槻999

両部鳥居のある社,詳細不詳。石上神社の南西。
大正九年1920に上記石上神社に合祀された日枝神社と推定。彫刻の施された立派な本殿。
鳥居手前に男體山と湯殿山・月山・羽黒山大権現。
  現在も祀られている
立派な本殿
本殿右手 左手
石段手前に御堂 左の山に鎮座
大白

大白神社

[たいはく神社]

栃木県矢板市・越畑97

主祭神:経津主命 配神:高龗命[たかおかみのみこと]天忍穂耳命・別雷神・大山祇命・木花咲耶姫神
もと星宮,日枝を合祀
旧地名:矢板市越畑町字堀ノ内97
東北本線片岡駅の1.5キロ東。「矢板市つつじの庭園20選」の看板の掛かったお宅の脇を入る。
参道左右に水田。
「天保二卯年九月吉日」の石燈籠。
文明二年1470に内川川岸に石祠を建立し,田中明神と称した。現在地に移転して星宮神社と称し,日枝神社(山王権現)を合祀。明治32年に大白神社と改称。
明治42年6月に5社を合祀した。湯殿山神社,龍神社,森神社,加茂神社,山神神社,浅間神社
『栃木県神社誌』旧版には,このうち片岡村大字越畑にあった湯殿山神社の祭神が「高龗命」とある。
「天保十三年1842 湯殿山」の石塔が二の鳥居左手に保存されている。
その隣りの石祠は「明治三十八年三月十三日」
鳥居右手に平成十六甲申十月吉祥日の大きめの石祠が1社。
本殿裏に1社。左手に2社。計5社残っている。
『栃木県神社誌』新版で合祀社に「龍神社」が加わっている。
本殿:流造瓦葺 幣殿・拝殿:瓦葺
例祭:9月19日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 山王権現 越畑名主 勘右衛門
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-11丁
片岡村大字越畑鎭座 村社 大白神社 祭神 經津主命 祭日陰暦九月十九日 建物本社間口三尺奥行六尺 雨覆間口一間奥行一間半 拜殿間口二間半奥行二間 鳥居一甚 氏子七戸總代二員 社掌建惟正喜連川町百四十番地住
本社創建年月詳ならすと雖も文明二年の再建にして鹽谷伯耆守源惟延及ひ領主喜連川家代々崇敬の社なり 社域九百三坪平坦の地に鎭す
鳥居左右に田
きちんと祀られている

神社か

[神社]

栃木県矢板市・上伊佐野

上伊佐野496-1 上伊佐野119-1に石燈籠

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県矢板市・安沢1794

主祭神:
詳しいことは分からない。

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県矢板市・安沢848

主祭神:
詳しいことは分からない。

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県矢板市・山苗代292

主祭神:経津主命・磐裂命・根裂命
創建年等不詳。144坪。
例祭:11月19日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 星宮大明神 山苗代 館ノ川村正
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-12丁
片岡村大字山苗代鎭座 村社 星宮神社 祭神 磐裂命 根裂命 建物本社間口一間奥行同 氏子十戸
本社創立不詳 社域百四十四坪字下山の高燥の地に在り


▊塩谷郡・泉 村『下野神社沿革誌』巻七-41丁(明治三十五年1902)
本村は小泉,上太田,東泉,長井,立足,平野,上下伊佐野,山田及ひ田野原の舊十村を合併したるものにて其幅員東西凡二里十八町南北凡二里廿町にして小泉は殆と本村中央に位し各大字四周にあり民居點々相接せり 地勢西に高原山脈を負ひ箒内及ひ宮川の三川南流し村民多くは素朴にして農業を勤め貯蓄の風あり 古來沿革に付ては徃時は上下伊佐野は平岡石見守に田野原は大友式部伊澤美作守に小泉は大友氏東泉は伊澤氏上太田は堀田摂津守の領邑に屬し各村領主を異にせしか維新后栃木縣の管轄に属し第三大區三小區に編入せられ次て一戸長役塲の所轄に歸し以て現時自治の一村とはなりぬ
本村には村社十一社其氏子戸數五百五十餘戸人口三千七百餘人を有す

麓山神社

[ふもとやま神社]

栃木県矢板市・上伊佐野197

主祭神:神倭磐余彦命・大己貴命・事代主命 大山祇命・天照皇大神・軻遇突智命・五行之神・南方刀美命・伊弉諾命 境内社:神明神社・愛宕神社・鬼渡神社・熊野神社・諏訪神社・湯殿神社
針生718の箒根神社由緒にある黒嶽山に白鳳二年673創立。宇都野の嶽山箒根神社の奥宮と重なるのだが,当社は「橿原箒根神社」と称した。神護景雲年間767~770に古社峰に遷宮,さらに麓山に遷り麓山大明神と改称。ここまでの社伝だと県内最古の社のひとつということになる。
安政四年1857神祇官領占部朝臣より「正一位麓山神社箒根大明神」神階を賜る。これが地図に箒根神社で載ってしまう原因になっている。
明治四十年1907三島神社,諏訪神社,湯殿神社,大山祇神社,神明神社,愛宕神社,鬼渡神社を合祀。
例祭:10月20日前の日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-41丁
泉村大字上伊佐野麓山禰宜内鎭座 村社 箒根神社 祭神 神倭磐余彥命 相殿五座祭神句々廼命 金山彥命 軻遇突智命 水速女命 埴山咩命 祭日陰曆九月十九日 建物本社間口一間二尺奥行一間一尺栃葺 雨覆間口三間奥行二間□拜殿間口三間奥行二間 末社二社 木華表一基 石燈籠三基 石像大國主神一軀 洗手盤一基 寶物神武天皇像一軀源義家奉納 神鏡二面 奉幣串三本 勅宣正一位支の位記 古書二通 孝明天皇御親筆神號勅額一面 中務卿有栖川幟仁親王御親筆神號扁額一面 奉幣箱一個安政四年1857十一月十日禁裏御所奉 奉幣箱一個安政四年1857六月三十日神祇官領長上奉 地頭平岡石見守奉納紳號扉額一面 氏子三十八戸 社掌赤塚滸同村大字同二六番地住住
本社は白鳳二年673十月を以て箒川の水源黑嶽山頂に祠建て神日本磐余比古命大己貴命事代主命を祀り橿原箒根神社と稱せしか濫觴にして后神護景雲年中に古社嶺に遷祀し伊佐野村の鎭守神と崇敬す 后麓山に遷座して麓山大明神と改稱す茲より衆庶の信仰する處となりぬ 就中天喜五年1057源義家奥羽征伐の砌り本社に戰勝を祈らせ給ふ時五行を司る五柱の神を相殿に祀らせ殊に神武天皇の御像及ひ御鏡等の奉納あり 又地頭平岡岩見守の崇敬にて神田三反二畝餘歩を寄附せられしより維新の際まて附せ置る 本社は文明八年1476再築に及ふ 明應三年1494上下伊佐野と分村の際下伊佐野村へ本社より分靈を遷して鎭守紳となせりより上伊佐野一村の鎭守神となること本社舊記に明なり 安政四年正月赤塚周防守上京し神社管領長上卜部朝臣の傳奏に依り安政四年1857十一月十日を以て下野國鹽谷郡麓山大明神に勅宣正一位の位記を授けらる 殊に光明天皇より神號の勅額二品行中務卿幟仁親王御親筆の扁額地頭平岡石見守の奉額等を藏して管内稀有の社なり 神職は赤塚重廣より代々連綿として本社に奉仕す 社域三百三十坪高丘の地にして五十六階の石磴を登れは杉檜蔚々蒼々森然として晝尚暗く後には山岳を負ひ東は内川の淸流滾々として山水の明媚と共に古色靄然として神威赫灼たり

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・下伊佐野238

主祭神:豊城入彦命 配神:大己貴命・事代主命・大日孁貴命・譽田別命・木花開耶姫命・大山祇命・月読命・軻遇突智命・大雷命 境内社:八坂神社
上記麓山神社の下宮にあたる。明応三年1494に伊佐野村が上伊佐野,下伊佐野に分かれたときに田の中に下宮をつくった。寛文九年1669に字御山に遷宮したが延宝二年1674に古記録共々消失したため旧社地に戻り,元禄四年1691に社殿を造営した。
明治三十九年1906神明神社・八幡宮,富士山神社,月山神社,山神神社を合祀。
明治四十年1907愛宕神社,雷電神社を合祀。
例祭:10月17日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
箒根三社 伊三野 赤塚周防 箒根大権現,日光大権現,熊野大権現
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-42丁
泉村大字下伊佐野鎭座 村社 箒根神社 祭神伊弉諾命 大已貴命 事代主命 建物本社間口一間奥行五尺 拜殿間口三間奥行二間 幣殿九尺四方 木華表一基 氏子三十三戸 社掌今平武敏同村同大字住
社傳に曰く本村は徃古伊佐野村と稱し上下一村なりしか明應三年1494中分裂して兩村となりぬ 當時麓山神社を一村の鎭守神と崇敬せしか后分靈して本社を勸請すと云云 社域百三坪平坦の地に在り 境内に繞らすに渠川の淸流を以てす 神橋を渡れは石の燈籠左右に並列し本社拜殿壯麗にして老杉蔚々と聳ひ四境開濶概ね田甫に接し杉風除ろに袂を吹いて淸洒自ら襟懐を淸ふするの境なり

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・長井2515

主祭神:神倭磐余彦命・大己貴命・事代主命
延長二年924修験者の宮本菊蔵院秀寛が宇都宮二荒山神社より勧請,法喜根神社と称した。明治十年1877箒根神社と改称。
例祭:旧暦9月29日前の日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-42丁
泉村大字永井鎭座 村社 箒根神社 祭神 神倭磐余彥命 大己貴命 事代主命 建物本社間口四尺五寸奥行一間 雨覆一棟 華表一基 石燈籠二基 末社一社 氏子八十二戸 社掌宮本勝位同村大字同住
本社創立遼遠にして詳ならす 社域八十六坪高燥の地に在り 石磴百廿五階躋りて本社に逹す 境内には老樹若杉蓊蔚として繁茂し深邃にして風色佳なり

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・山田1021

主祭神:豊城入彦命・大己貴命・事代主命 配神:応神天皇・倉稲魂命・菅原道真公・別雷神・軻遇突智命
天正年間1573~92に山田筑前守業辰が宇都宮二荒山神社より勧請と伝わる。
例祭:10月17日前の日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-43丁
泉村大字山田鎭座 村社 箒根神社 祭神大己貴命 少彥名命 豊城入彥命 建物本社間口五尺奥行七尺 拜殿間口三間奥行二間 末社二社 氏子五十戸 社掌橋本喜和目同村同大字住
本社勤請年月遼遠にして不詳 社域百十四坪高燥の地に在りて六十六階の石磴を登れは左右に石の燈籠及ひ石の盥漱盤あり 赤き鳥居を潜れは又十五階の石磴あり 之を躋れは石の燈籠左右に並列し東に箒川を控ひ境内には古杉老樅若杉を交へ森々と繁茂し神威は箒川の水音と共に高し

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・田野原294

主祭神:豊城入彦命・大己貴命・事代主命
霊亀二年716宇都野より勧請。明暦三年1657消失,安永四年1775再建。
明治三十九年1906八幡神社,愛宕神社,雷神社を合祀。
例祭:10月19日前の日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 箒根権現 田野原 歓喜院
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-43丁
泉村大字田野原鎭座 村社 箒根神社 祭神 豊城入彥命 建物本社間口二尺五寸奥行四尺 末社一社 氏子二十九戸
本社創立不詳 社域四百七十四坪字宮の前に在り

松尾神社

[まつお神社]

栃木県矢板市・田野原291-1

写真提供:Roku Jiiさん

主祭神:豊城入彦命・大己貴命・事代主命
霊亀二年716宇都野より勧請。明暦三年1657消失,安永四年1775再建。
明治三十九年1906八幡神社,愛宕神社,雷神社を合祀。
例祭:10月19日前の日

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・立足894

主祭神:大己貴命・豊城入彦命・少彦名命
遠い昔に宇都野より勧請。
例祭:9月19日前の日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 荒人神 立足 手塚和泉
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-43丁
泉村大字立足鎭座 村社 箒根神社 祭神大己貴命 豊城入彥命 少彥名命 建物本社間口四尺奥行一間二尺 氏子二十二戸
本社は本郡宇都野村に鎭座せる箒根神社の分社にして元禄年中1688~1704本社再建す 社域百入十九坪字禰宜内に在り

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・平野471

主祭神:豊城入彦命
明暦四年1658造営。『栃木県神社誌』平成18年版に明暦五年とあるが明暦は3年3か月3日なので四とした。
嘉永二年1849本殿修理,明治十五年1882時本殿拝殿改築。
例祭:9月第三日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-43丁
泉村大字平野鎭座 村社 箒根神社 祭神豊城入彥命 建物本社間口一間一尺奥行一間半 氏子三十六戸
本社創立不詳 社域八百廿三坪字明内に在り
平野

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・平野28-1

主祭神:
大きそうな神社だが詳しいことは分からない。
箒根

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・東泉561

写真提供:Roku Jiiさん

主祭神:豊城入彦命・大己貴命・素盞嗚命
遠い昔に宇都野より勧請。消失の後大永四年1524再建。天保六年1835再度消失するも嘉永元年1848再建。本殿の額は荘子逍遥遊から「正気磅礴[ほうはく]」,ついていけない学識。
明治四十年1907白髭神社(猿田彦命),湯殿神社,浅間神社,加茂神社,愛宕神社,芭蕉神社(菅原道真公),稲荷神社,月山神社を合祀。
鏡山寺の西隣りに鎭座。
例祭:10月19日前の日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 箒根権現 東泉
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-43丁
泉村大字東泉鎭座 村社 箒根神社 祭神大已貴命 豊城入彥命 素蓋嗚命 建物本社間口一間四寸奥行一間一尺 氏子五十四戸
本社創立不詳 後大永四年1524九月本社再建せり 社域三百四十四坪ににして淸洒の地にあり
本殿
見事な彫刻 正気磅礴
境内社七社

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・上太田213

主祭神:豊城入彦命
当社の本社は宇都野の嶽山箒根神社で,天文十二年1543に太田備前守永存が宇都野鳩森城を攻め落し御分霊を自分の領地の字森一丁田(小泉の小字,森一町田とも)に勧請した。
例祭:10月19日前の日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 箒根権現 上太田
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-44丁
泉村大字上太田鎭座 村社 箒根神社 祭神豊城入彥命 建物本社間口四尺奥行九尺 末社二社 氏子三十一戸
本社は白鳳年中本郡宇都野村に鎭祭せしを後本村に遷祀し享保年間1716-36本社を再築す 社域三百二坪字(森ヌケ)一町田の淸洒の地に在り

箒根神社

[ほうきね神社]

栃木県矢板市・泉?

主祭神:豊城入彦命大己貴命素盞嗚命
小泉は昭和二十九年1954十二月から泉に。
例祭:月日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 箒根権現 小泉
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七-44丁
泉村大字小泉鎭座 村社 箒根神社 祭神 豊城入彦命 大已貴命 素蓋鳴命 建物本社間口五尺奥行一間一尺 末社一社 氏子三十六戸
本社創立年月不詳 社域五百五十三坪を有し字宮の前に在り 

八坂神社

[やさか神社]

栃木県矢板市・泉385-1

主祭神:素盞嗚命
泉小学校の隣り。

水分神社

[みくまり神社]

栃木県矢板市・上伊佐野953

主祭神:天之水分大神

例祭:月日

槙ヶ岡神社

[まきがおか神社]

栃木県矢板市・下伊佐野973-1532

詳しいことは分からない。

多賀三島神社

[たがみしま神社]

栃木県矢板市・長井2062

主祭神:伊邪奈岐命・伊邪奈美命・大山祇命 境内社:天満宮・琴平神社・稲荷神社・十二社神社
建久二年1191創建。近江の多賀神社から伊弉諾命・伊弉冊命を,伊豆の三嶋神社より大山祇命を勧請した。
寛政八年1796消失のため新築。昭和十二年1937改築。
例祭:4月第一日曜日 大和流太々神楽

八坂神社

[やさか神社]

栃木県矢板市・長井1278

主祭神:素盞嗚命
創建年等不詳。神社合祀の嵐で森山の箒根神社に合祀されたが,氏子に不幸が続出したので再び現在地に帰ってきた。
例祭:7月14日

剱ノ宮神社

[つるぎのみや神社]

栃木県矢板市・長井1945

主祭神:日本武命
康平七年1064源頼義が当地に祠を建て,太刀を納めたので剱の宮と称した。
例祭:旧暦9月15日

箒根三島神社

[ほうきねみしま神社]

栃木県矢板市・泉613

主祭神:大己貴命・大山祇命 配神:豊城入彦命 境内社:愛宕神社・鹿島神社・雷神社・権現神社
寛政十一年1799二月十七日創建。出雲大社より箒根神社を,伊豆の三嶋神社より御分霊を勧請。昭和二十五年1950台風で大破,同年本殿と拝殿を新築。
613は欠番で,鎭座地が特定できない。泉中学校の北あたりのはずだが。すぐ西隣りの東北道脇の森にわりと大きな屋根が見えるが,住所は平野28-1箒根神社になっている。住居表示変更ではなかろうから,未発見とする。574坪。間口三間奥行二間の拝殿,石鳥居。

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県矢板市・泉39-3

主祭神:火産霊命



▊塩 谷 郡『下野神社沿革誌』巻七-35丁(明治三十五年1902)
本郡市街は氏家喜連川矢板とす 矢板は郡役所を置れて以來市街地をなせるものにして最も氏家喜連川を以て第一繁盛の地とす
郡内名勝舊跡として數ふへきは鹽原を始めとし衣川狐川及ひ鹽の屋の里あり舊城主には喜連川,氏家,泉,川崎,鹽原等にして古戰塲は彌五郎坂あり其他遺跡には賴政の窟宇都宮持網の墳墓高尾の碑等あり 神社には木幡の木幡神社喜連川の喜連川神社及ひ伯耆禰神社宇都野の嶽山神社氏家の今宮神社鹽原の八幡宮 佛寺には佐貫の觀音鹽原の妙雲寺等あり又以て考古の資料たらんか 本郡の物產は木材薪炭等にして最も多量の良材を出せり 次に本郡に關する歷史の大要を記し徃古治者の變遷沿革を擧けむ 抑も本郡は初め鹽屋と呼ひ倣したるは多く山鹽を產せしめしより斯く名附しものと見ゆ こは萬葉集に鹽屋郡上ノ丁丈部ノ足人か歌見ゆ其頃より鹽屋と呼ひしあらんか 后紀元千七百年代鹽屋氏なるものありて川崎郷に城く此れ源義家の男義親罪ありて其子孫賴純流罪となりて當地に來り鹽屋氏を稱せしにや始れり 次て治承年間鹽原八郎家忠鹽原城を築き源賴政の一族を庇護し今尚鹽原に賴政窟の遺跡を存せり 後壽永三年1184鹽屋正義喜連川に城けり 次て建久年間宇都宮公賴氏家に城きて氏家氏を稱せり 其后南北朝の時代を經て紀元二千百年代宇都宮の援軍佐竹氏の臣松野禰五郎舊戰數十人を殪して遂に討死す今に彌五郎坂の古戰塲是なり 次て天正十八年川崎鹽屋亡ひ司年又喜連川の鹽屋減亡し足利國朝其城主となりて世々喜連川氏を稱し十三代縄氏に至り足利の本姓に復せり 爾來足利氏の領する所となる 明治維新に及ひ同三年足利聰氏阪圖を奉還するに至れり 明治五年癈藩置縣の令あり 更に宇都宮縣に属し后又栃木縣に属し郡長の主掌する所となり次て今日の町村自治をなすに至れり
本郡現在の町村數は三町十三村にして郷社三社及ひ村社百四十二社其氏子戸數八千四百五十餘戸人口五萬五千二百九十餘人を有せり
本郡教育の如きは着々進歩せさるなきに非す 加ふるに一歩を進みて本縣農學校を野崎村に置かれ農事の改良等依て以て資すヘきもの又少なからす

 

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