高尾神社

さくら市・上阿久津1905
[たかお神社]使用文字[龗靇尾]混在
主祭神:[高龗神

旧地名:氏家町大字上阿久津1905
主祭神:高龗神社[たかおかみのかみ]
『栃木県神社誌』旧版では主祭神の文字は「高尾神」であったが,さすがにまずいことに気がついて新版では「龗」字に改められている。しかし,社名は「高尾神社」に定着してしまったようだ。
旧4号線ぞい,氏家の手前。丘の上にある。入口の鳥居と2番目の石段の上り口の間に道路貫通工事中。参道を破壊した形。情けないことだ。石段を上ると享保12年1726建立の3つ目の鳥居。大きな神社である。境内社も多い。
「村社・高神社」の石柱。「村社」の文字が埋めて消されている。
しっぽになっているが,由縁の看板には

「天候を支配する神が高尾神!!!で,天空や地の底,闇の中にいる神々たちの集団です。雷神・竜神・水神などとなって人々に信仰されてきました。上阿久津の高神は鬼怒川と関係の深い水神(龍神)信仰が原点と考えられます」
とあり,これは,まさに「高龗の神」を指す。*聞書では社号を古事記ふうに「タカオカミ大明神」と記録している。維新の神仏分離で尾をあてて「高尾神社」と改称した唯一の珍しい例。タカオカミはもちろん高尾ではなく高龗であり,明神額があるのは江戸の名残である。
さらに興味深い記述がある。
「10月19日の大祭には古法による強く発酵させた甘酒と生の川魚を一緒に供え,それをいただく古式の神事が伝承されています」
口3つの神器に酒を供える儀式を表す「雨+口口口+龍」字のとおりである。
すると,しっぽは竜の尾ということで落ち着くか。
上阿久津在住の方の奉納された拝殿軒下の額は「雨+罒+龍」であり,その左の額も「高龗明神」になっている。「尾」と「龗」が混在している。拝殿内は「尾」のようだ。
平成?元年のカラーの龍と赤白黄の菊花を描いた絵が奉納されている。
すばらしいロケーションで,杉の木立を透かして,鬼怒川の向こうに日光連山が望める。
分断した道路の向こうの,もともとは同じ境内であったと推測されるもうひとつの丘の上に木製の鳥居があり,稲荷大明神が祀られている。
「寛保三亥天1743手洗石臺」の上の「手洗石」は見事な造形。260年を経ても「洗」の文字がくっきりと。
享保元(申?破損)1716の石燈籠。
安永七戌九月1778のちょっと変わった石塔。
天保八1837の「石橋」石塔の裏に「大正元年石橋修繕委員」の文字。
その右の「勝善神」石塔には天保庚子1840冬十月の文字。
大正八年の狛犬がお城の石垣形式の土台に載っている。
延享二(乙)丑天1745の石塔が疱瘡神の脇に。
明治39年1906に焼失した社殿は延宝六1678建立とされていた。『栃木県神社誌』新版では,持統天皇の頃,鬼怒川の水難を避けて東武峰岸の北端に水神を奉斎したのが起源で,建長三年1251に社殿を造営して氏神とし,天和三年1683に現在地に遷宮,社殿を造営したが,明治40年に消失,大正元年に再建したとある。5年程の差があるが,古社であることにかわりはない。きちんと手入れの行き届いた神社である。
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本殿:神明造銅板葺 幣殿・拝殿:神明造銅板葺
例祭:11月10日 

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『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡,正一位高於加美大明神,上阿久津,東円寺
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『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)7巻22丁
鹽谷郡阿久津村大字上阿久津鎭座
村社 高尾神社
祭神 高龗神 建物本社間口一間半奥行二間 拝殿間口四間奥行二間半 末社二社 氏子百六十一戸・総代員 社掌
本社創立不詳社域四百三十四坪平坦の地に在り

一の鳥居は両部鳥居

二の鳥居

尾の社柱

尾で統一


手洗い石の台座

奉納額の文字はまちまち













享保十二丁未1727の鳥居

享保元年1716

鳥居右手



新しい道路の向こうにも摂社

稲荷大明神




稲荷から本殿を臨む

下方を鬼怒川が流れる



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