高尾神社

[たかお神社]

壬生町・上稲葉566

使用文字[雄・尾]

旧地名:下都賀郡壬生町大字上稲葉峯566
主祭神:日本武尊
黒川西に南北に延びる巨大な古墳状の丘が横たわる。杉,楢などの雑木が生い茂っている。
西側はきちんとコンクリートの石版で地上2mの高さまで延々と土留めされている。
南に正式な神社入口があり,中央に小型の鳥居のある別の入口がある。
正式な入口から拝殿まで,かなりの距離があるので,もうひとつ入口を設けたに違いない。
このあたりは関東平野真っ只中で,高い山や丘はひとつもなく,北に日光連山がくっきりと見える。すばらしいシチュエーション。
「天保七丙申1836」の手水石。神楽殿もあり,拝殿は瓦葺で立派。

長い参道の途中に新旧の鳥居がある。旧は柱だけが残されたが,このために貴重な文字が保存され,問題点も出てくることになる。
旧柱には「元禄七甲戌天1694四月吉祥日」「高雄大明神御寶前上稲葉村」の文字がはっきり確認できる。300年以上前には「高雄」の表記が使われた。
元禄から100年後の鹿沼聞書*では「高尾大明神」と記録される。鹿沼聞書ではほとんどの「タカオ」が「高尾大明神」で記録されているが,ここ稲葉の元禄の刻印が「高雄」であることから,高雄,高龗は区別せず「高尾」で記したことが推測できる。
現在の鳥居額と社号標は「高尾」。壬生町教育委員会の掲げた由来書は建礼門院に仕えた少納言高尾に因む,社伝の通り。
社伝をしるした『下野神社沿革誌』では4日を隔てて「高雄」から「高尾」に書き換えられている。

「高雄は山城國西の山也 因幡國峯に高雄大明神を勧請す…我所在の高雄大明神を祀り末の代迄も物傳へて我名も残らん 我願は是許りなりとて文治四戌申(1188)九月二十五日四十才にて身死りぬ 翌酉(1189)九月二十五日年忌來りて皆人打寄り弔ひ又錦の服紗包を神に祀らんとて彼服紗包を土中に埋め草を結んで祠となし因幡の峯の高雄大明神を移し文治五巳酉(1189)年九月二十九日高尾大明神と祭る 此時より峯山と名付け今に峯坪と云へり」。

創立から約500年後の元禄の鳥居は高雄大明神と刻んだ。雄と尾は同列の扱いが続いたのだろう。
元禄の鳥居は栃木県ではとても貴重なものなので「しっぽ」を優先して取り外したりしないで後世に残して欲しい。
--------- 境内社に宇迦之魂命(倉稲魂命)の稲荷神社,大山祇命の大杉神社。
大正三年に山神社他を合祀している。
宝永年間1704-11に社殿が大破し,4月に改築した記録がある。
本殿:流造瓦葺 幣殿:八方造瓦葺 拝殿:流造瓦葺 例祭:9月18日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡,正一位高尾大明神,稲葉,荒川讃岐
*『下野掌覧』万延元年1860
都賀郡之部 高尾大明神 上稲葉村鎮座 祭主荒川氏ナリ
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)4巻22丁
下都賀郡稻葉村大字上稻葉字峯鎭座 村社 高尾神社 祭神 日本武命 祭日陰曆九月二十八日 建物本社九尺四方 拜殿間口三間半奥行二間半 雨覆間口二間半奥行三間二尺 末社六社 華表一基 氏子百七十五戸 社掌荒川辰之進仝村大字仝住
本社は文治五年1189九月二十八日里民等相議り峯山に一小祠を立てて勸請し荒川氏を以て本社に奉仕せしむ 後建久五年1194九月壮麗なる本社を再築して稻葉村の鎭守神と尊崇す 後享保元年1716十一月神主荒川某上京し神祇管領長上吉田殿へ請へ宣旨正一位を授けられ爾来神威赫灼たり 社域千五百七坪高丘の地にして境内には樅の老木古杉森々として景趣頗る幽邃なり
社傳 高雄は山城國西の山也 因幡國峯に高雄大明神を勧請す  安徳天皇御幼雅の時源平の合戰に御一門の人々都を攝州一の谷へ開き楯籠る 御母賢禮門院都にて御命終らせ給ふ寿永二年1183年なり 小納言高尾は因幡國峯より都へ出て大内に勵み時の官小納言なりしか志願ありで遠路刀に一と品を下され御暇出けり 高尾自ら見禰と名を改め壽永元年1182十一月都を出て古郷に立歸る道にて供連れたる小奴煩ひ相果けり是非なき一人旅と思ひて知らぬ道を問ひけれとも女の身とて捗々しからす悩みに悩みたり 世渡る商人此女を見て都人にやありつらめ扨々氣の毒の事なりとて何呉となく世話して救ひけるか此商人を見失ひけり 高尾因州へ立歸らんと思ひしも商人に一と度尋合ひ身を救はれし恩禮謝すんは非すとて商人の名所委しく尋けれは金賣吉治と云ふ人なりしか野州郡賀郡の内に暫く足を留める人なりと聞き然らは野州へ渡り商人を尋ねんと思ひ遥々都賀郡を尋ね稻葉と云ふ所に來りて里人に吉治と云商人此邊ヘ來つらんやと問へけるに去頃相果しと聞て信用仰心の恩人なりとて此里に淹り吉治か墓を築き供養せり 此所を今に吉治内坪と稱せり 高尾偶々病に罹れり此稻葉と云所に來りし事古郷因幡へ歸りたるも同し事と思ひて筆紙を寄せて
因幡國よりはるはると此里へ來りしかこし方の戀しさに歸らんと思ひし折から最と病厚くなり今や限りにやせめて此里の稻葉に歸る里へ歸りし思ひをなして
「故郷の道のしるへも絶はててちきるいなはの名してつらけれ」と詠みて巳に其日も過てけり最早命の限りにや有んと思ひ今は何を包むへき我は因幡國より都へ出て大内に勵み時の官小納言高尾と云へしか見禰と名を更めて此里に來りしなりとて身上委しく物語りて錦の袋に入りし懐劍を取出し此刄は此家に傳ふへく又錦の服紗包を取出して此一品は大内裏の御寶の一品也此寶物は此家に持つへき物に非す故に埋めて我所在の高雄大明神を祀り末の代迄も物傳へて我名も残らん 我願は是許りなりとて文治四戌申1188九月二十五日四十才にて身死りぬ 翌酉1189九月二十五日年忌來りて皆人打寄り弔ひ又錦の服紗包を神に祀らんとて彼服紗包を土中に埋め草を結んで祠となし因幡の峯の高雄大明神を移し文治五巳酉年1189九月二十九日高尾大明神と祭る 此時より峯山と名付け今に峯坪と云へり 後建久三年1192夏より疫病流行し國中夥多しく悩ませし時所のもの寄集りて巫神修驗者を賴み神樂を奏し神を諫奉れは此に於て一人も疫病を受けたる者無かりしと云へり 所の者等誠に奇異の思ひを成して仝五甲寅年1194九月二十八日亙に神殿を建立し稻葉村の氏神高尾大明社と崇敬奉れり
旧柱が保存されている
「高雄」が読める貴重な鳥居柱 元禄七1694は古い
高尾神社由来 神楽殿
別の登り口 脇の登り口の鳥居 境内社
石祠 南の入口
日光連山が見える 右の写真とつながった山の 中央に鎮座

 

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