高龗神社

[たかお神社]

高根沢町・大谷1074 おおや

使用文字[龗]

主祭神:多加淤加美

主祭神:多加於加美加美[たかおかみのかみ]『古事記』ふう表記である。
配神:大山祇神,別雷神,八千矛加美
境内社:稲荷神社(倉稲魂命),大杉神社(素戔嗚命),神明宮(天照皇大神)
旧地名:塩谷郡高根沢町大字大谷1074
宝積寺から氏家に向かって北上し,菅又病院を越えてすぐ,畑の右手奥に神社の森が見える。
入口に口3つ付きでくっきりと「村社高龗神社」の社柱。
高根沢町教育委員会の建てた「有形文化財・大谷高龗神社本殿」文字も正字。
拝殿額も正字。神社案内の立て看板も正字で統一され,きちんとしている。とても気持ちがいい。
シチュエーションも抜群で,雪をかぶった男体山がくっきりと見える。さらに,森の上をトンビが1羽,サギが2羽悠然と飛び,3羽の白サギが杉のてっぺんに休んでいる。
参道入口と鳥居の間の2か所に旗杭。
概要に「五行川のほとりに治水の神を祀った大谷の鎮守で1000年余りの歴史を持つ」
祭神に「多加於加美尊」と古事記の記法で書かれ,「たかおかみのみこと」とルビが振られている。
略史に「天延年間(973〜6年)下野右門正が五行川大岩に龍神を祀ったのが起源」とある。慶長五年1600,神主藤原秀綱の奉納文「當社鎮守高龗大明神宗源之事」によるという。400年以上前の文献。江戸初期にすでに高龗大明神で,江戸後期に[タカオカミ大明神]と呼ばれていたことが分かる。*『鹿沼聞書』は高於加美大明神,『下野掌覧』では高龗大明神と龗字で記録されている。維新の神仏分離で高龗神社に改号した。
由緒沿革には「"*天延十一"年九月,下野右衛門正及び隼人,采女三家の勧請により,松林原の南,五行川大岩に神祠を奉斎」とある。
『栃木県神社誌』旧版は"天延十一"だが新版では天延年間973-76に訂正された。
創建説が混乱しているが,天延頃に五行川に水神を祀っていたが,600年ほど後の永正十一年1514の大旱魃のときに三家力を合わせ貴船の神を勧請して祈雨の儀式を行ったところたちまち甘雨あり,感謝して九月に社殿を建て高龗大明神と称したことが実際の創建。『下野神社沿革史』の「天延十一」を「永正十一」に訂正すれば良いわけだ。
慶長二年に工事を開始し同五年1600社殿再建。明治24年拝殿再建。
境内社は明治42年の合祀によるもので,稲荷は2社ある。
1713年の神祇管領長より拝領の正一位高龗神幣帛が宝物として残っているという。
向拝の18世紀の龍(虹梁),神前にある翼のある飛龍の彫像を看板の写真で見ることができる。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 正一位高於加美大明神 大谷 阿久津伊勢
*『下野掌覧』万延元年1860刊
鹽谷郡之部 正一位高龗大明神 大谷村鎮座 祭主阿久津氏ナリ
*『下野神社沿革史』7巻21丁(明治36年1903刊)
鹽谷郡阿久津村大字大谷鎭座 村社 高龗神社 祭神 多加於加美 祭日陰曆九月十九日 建物本社間口一間奥行同銅葺総朱塗 雨覆間口四間奥行四間 拜殿間口三間奥行二間半 石燈籠二基 木鳥居一基 神號銅製扁額一面 末社四社 氏子六十六戸・総代三員 社掌阿久津伊勢松同村大字同五六番地住
本社創建は*天延十一年九月にて
(*天延は4年までしかないので誤記,永正11に引きずられたか)下野右門正及ひ隼人采女三家の勸請にして明治五年1872第五大區三小區鄕社に定めらる 后明治十年1877八月行政區畫改正に付村社となる
社傳に曰く本村は天延年間973-76下野右門正と云ふ人日光大谷川の邊りより此土に來りて始めて居宅を構ひ大谷川の名稱を取りて大谷村と號すと 后文明年間1469~1487下總の國より隼人と云へる者來り住し長禄年間1457~60播州より采女と云者又來住して土地の開墾に従事し田畑を開き耕耘しつゝ漸々三家の子孫繁殖し右門正の一族村の首長となり隼人采女の子孫七家に蕃息せり
后永正十一年1514の夏大旱魃にて百榖將に枯死せんとす時に三家八門を始め村内の人民深く憂ひ嘆きて山城國愛宕郡貴布禰大神を招祭し鄕民等假に祭屋を設けて七日七夜忌み籠りて祈雨せしに忽然として黑雲勃興し甘雨沛然として降りけれは百榖草木を潤し斯鄕に限り豊熟を得る これ全く貴布禰神社の靈驗なることを感喜し卿民相議り同年九月宮殿を創建して高龗神と尊稱し永く本村の鎭守神となす
慶長三年1598社殿の再建あり 同十七年霖雨の際祈晴 又寛永三年1626の大旱にも祈雨の靈驗ありて大神の神徳を蒙らさるはなし 茲により下野右門正(代々右門正を以通稱とす)二十七代の孫宮下明王院と號し本社の別當職となす 后阿久津和泉守の男左馬介を養子となし神職を相續せしむ 故に宮下を改めて阿久津と稱して代々本社に奉仕せしむ 社域七百三十三坪田甫中にありて后には五行の淸流滾々として三方には枝川を回らし本社南に向へ馬塲の入口には注連掛と稱する古杉相對し馬塲(長さ五十間)には石を敷き並へ境内には古杉老樹蓊欝として繁茂し遠望するも霞然として丘山の如く眞に奇景と云ふべし

口みっつ付 口みっつ付
口みっつ付
白鷺
中柏崎

高尾神社

[たかお神社]

高根沢町・中柏崎445

使用文字[尾]

主祭神:多加淤加美

主祭神:高於賀美命[たかおかみのみこと]『栃木県神社誌』記載表記による。
旧地名:塩谷郡高根沢町大字中柏崎445
宇都宮から高根沢のホンダ工場を右手に見て給部を目ざす。給部鎮守高尾神社を左に見て,最初の信号を左折。目印は大森果樹園。右奥に赤い鳥居が見える。
入口に明治四十三年の旗杭。
ひとつ目の平成17年の石の鳥居額は「高尾大明神」,つぎの鮮やかな朱塗りの鳥居額も「高尾大明神」
その右手の大正十一年社号標に「村社・高尾神社」
大正十三年の狛犬が次に立つ。
石段を上るともっと古そうな狛犬が左右に立ち,本殿を横から見る位置に出る。つまり本殿が参道に対して直角に向いている珍しい構造。拝殿内の額も「高尾神社」
「明治四十二年己酉一月吉辰」「大正八年九月二十九」の石燈籠が左右に。
拝殿右手に石燈篭が3基。「文久二年1862壬戌正月吉辰」「明治二十三年1890庚寅一月吉辰」「明治四十一年1908戊申年第一月吉辰」,左手に「明治四十二年1909己酉正月吉辰」
「吉辰」の表記形式が踏襲されている。
「神明殿」の社号標のある境内社。
鎌倉期の建久八年1197創立。栃木県内タカオ神社の中で7番目の古社。
上から見下ろすと緑に映える朱塗りの鳥居の向こうに田んぼが広がる。
「中柏崎」のすぐ西南に「給部」,東に「曲畑」と3つの高尾神社が並んでいる。
ここの東南の山にも「嘉永二酉年1849柏崎惣村中」の文字が残る小さな神社がある。
本殿:流造トタン葺 拝殿:トタン葺 例祭:10月29日
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)7巻-20丁
鹽谷郡北高根澤村大字中柏崎鎭座 村社 高尾神社 祭神 高龗神 建物本社間口一間一尺奥行同 末社三社 氏子三十六戸
本社は建久八年1197の創立にして社域四百六十五坪を有し字宮の前に在り
*【参考】高尾大明神 原窪 法林寺
高尾大明神額 高尾神社社号標
高尾神社額
上阿久津

高尾神社

[たかお神社]

さくら市・上阿久津1905

使用文字[龗・靇・尾]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神社[たかおかみのかみ]
旧地名:氏家町大字上阿久津
『栃木県神社誌』旧版では主祭神の文字は「高尾神」であったが,新版では「龗」字に改められている。
旧4号線ぞい,氏家の手前。丘の上にある。入口の鳥居と2番目の石段の上り口の間に道路貫通工事中。参道を破壊した形。情けないことだ。石段を上ると享保12年1726建立の3つ目の鳥居。大きな神社である。境内社も多い。
「村社・高尾神社」の社号標。「村社」の文字が埋めて消されている。
「天候を支配する神が高尾神で,天空や地の底,闇の中にいる神々たちの集団です。雷神・竜神・水神などとなって人々に信仰されてきました。上阿久津の高尾神は鬼怒川と関係の深い水神(龍神)信仰が原点と考えられます」
とあり,これは,まさに「高龗の神」を指す。*聞書では社号を古事記ふうに「タカオカミ大明神」と記録している。維新の神仏分離で尾をあてて「高尾神社」と改称した珍しい例。タカオカミはもちろん高尾ではなく高龗であり,明神額があるのは江戸の名残である。
さらに興味深い記述がある。
「10月19日の大祭には古法による強く発酵させた甘酒と生の川魚を一緒に供え,それをいただく古式の神事が伝承されています」
口3つの神器に酒を供える儀式を表す「雨+口口口+龍」字のとおりである。
上阿久津在住の方の奉納された拝殿軒下の額は「高龗神社」であり,その左の額も「高龗明神」になっている。「尾」と「龗」が混在している。拝殿内は「尾」のようだ。
平成?元年のカラーの龍と赤白黄の菊花を描いた絵が奉納されている。
すばらしいロケーションで,杉の木立を透かして,鬼怒川の向こうに日光連山が望める。
分断した道路の向こうの,もともとは同じ境内であったと推測されるもうひとつの丘の上に木製の鳥居があり,稲荷大明神が祀られている。
「寛保三亥天1743手洗石臺」の上の「手洗石」は見事な造形。260年を経ても「洗」の文字がくっきりと。
享保元(申?破損)1716の石燈籠。
安永七戌九月1778のちょっと変わった石塔。
天保八1837の「石橋」石塔の裏に「大正元年石橋修繕委員」の文字。
その右の「勝善神」石塔には天保庚子1840冬十月の文字。
大正八年の狛犬がお城の石垣形式の土台に載っている。
延享二(乙)丑天1745の石塔が疱瘡神の脇に。
明治39年1906に焼失した社殿は延宝六1678建立とされていた。『栃木県神社誌』新版では,持統天皇の頃,鬼怒川の水難を避けて東武峰岸の北端に水神を奉斎したのが起源で,建長三年1251に社殿を造営して氏神とし,天和三年1683に現在地に遷宮,社殿を造営したが,明治40年に消失,大正元年に再建したとある。古社であることにかわりはない。きちんと手入れの行き届いた神社である。
本殿:神明造銅板葺 幣殿・拝殿:神明造銅板葺 例祭:11月10日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 正一位高於加美大明神 上阿久津 東円寺
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)7巻22丁
鹽谷郡阿久津村大字上阿久津鎭座 村社 高尾神社 祭神 高龗神 建物本社間口一間半奥行二間 拜殿間口四間奥行二間半 末社二社 氏子百六十一戸
本社創立不詳社域四百三十四坪平坦の地に在り

一の鳥居は両部鳥居 二の鳥居 社号標
尾で統一 手洗い石の台座
奉納額の文字はまちまち
享保十二丁未1727の鳥居
享保元年1716 鳥居右手
新しい道路の向こうに稲荷大明神
稲荷大明神いまは朱鳥居 稲荷から本殿を臨む
下方を鬼怒川が流れる 稲荷大明神の文字
肘内

高尾神社

[たかお神社]

塩谷町・肘内628

使用文字[尾]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神,鷄鳥大神 配神:猿田彦命,天津瓊々杵命
祭神は高も闇もつかない「龗神」で『栃木県神社誌』旧版に掲載されていたが,新版では高龗神で落ち着いた。
境内社:琴平神社(大物主命),愛宕神社(火産霊之命),山神社(大山祇命),湯殿山神社(大山祇命),天神社(菅原道真公)
旧地名:塩谷郡塩谷村肘内神の前
鬼怒橋の北の広大な田園地帯。はるか東に新幹線が見える。
日光連山・高原山・那須連峰が一望できるすばらしいシチュエーション。
社号が確認できるのは拝殿内の額のみで,尻尾の「高尾神社」
きちんと手入れされていて,御神木の杉にも結界が張られ,竹竿の幣がきっちりと結わえ付けられている。
境内社に「文化八辛未年1811肘内村」の文字。大久保の地名情報で探したのだが,肘内が正しいことになる。もちろん神社名鑑記載の「時内」は誤植。
昭和14年の迫力のある狛犬。
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)7巻-27丁
鹽谷郡大宮村大字肘内鎭座 村社 高尾神社 祭神 高龗神 建物本社間口二尺七寸奥行四尺三寸 末社一社 氏子二十四戸
本社は字神の前に在りて社域六百七十一坪を有す

高尾神社 男体山が見える
後方に高原山 広大な田園地帯
石祠2基 御神木
整然と祀られている
文化八年1811 肘内村
大宮

大宮神社

[おおみや神社]

塩谷町・大宮2325

旧社号:[高龗大明神]

主祭神:軻遇突智命 配神:倉稲魂命
境内社:八坂神社(素戔嗚命),琴平神社(大物主命),愛宕神社(火産霊命)
旧地名:塩谷郡塩谷村上町2325
なんと,ここは元々は「高龗大明神」であった。昭和48年の看板には「大宮神社 通称高龗大明神」と書かれている。拝殿額も「正一位大宮高龗大明神」,文字はどちらも「雨+龍」
明治5年に宿東字斗藤にあった軻遇突智命を祭神とする「大宮神社」を合祀して,明治9年に大宮に改称している。
羽黒山の北約2キロ,大宮小学校と塩屋高校の間に鎮座。きちんと手入れされた瀟洒な神社である。
拝殿左手の立派な境内社は八坂神社と加波山神社。拝殿と本殿が備わっている。
愛宕山,庚申の左の石祠の中に「秋葉・金毘羅・石尊大権現」の石版が収められている。
「男體山・湯殿山塔 文政七甲申十二月吉日」1824
「石尊山 天保十五辰年1844六月吉日」(大山祇神に関わる。塩谷町玉生の石尊山は標高481m)
「琴平山 安政四丁巳歳1857十月」
「甲子塔 元治元乙丑1865」
鳥居手前の「しだれ桜」は空洞になっているが葉は青々と茂っている。推定170年。新版では330年。
本殿:宮造欅材柿葺高欄付 本殿上置:銅葺 拝殿:入母屋造トタン葺
例祭:11月第一日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 高尾大明神 大宮 東性寺
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)7巻-26丁
鹽谷郡大宮村大字大宮鎭座 村社 大宮神社 祭神 火產靈命 建物本社間口二間奥行二間半 木鳥居一基 石燈籠二基 石こま犬二基 氏子七十二戸
本社創立詳ならす社域五百七十三坪字上町に位し境内平坦の地にして老梅櫻及ひ青桐の巨木あり花時には士女詣てゝ衣香扇影相接し此地の勝地なり 側に前神官渡邊貢の碑あり
正一位大宮高龗大明神
八坂神社・加波山神社
大宮神社 右:愛宕山 金毘羅山
男軆山・湯殿山
桜の古樹