旧地名:上都賀郡・西方村本城
主祭神:高龗神
西方ふれあいパークの北端,思川を見下ろす岸辺に鎮座。公園に入って事務所を左手に見て奥に進むと大きめの水神社と白い石鳥居が見えてくる。すぐ外の大河は思川。
罔象女神をご祭神とする水神社の右となりに,少し南西の西方城址から令和六年2024十二月に「高龗神社」が遷宮してきた。遷宮式の日付は不明(棟札の日付は八日)。白色鳥居は高龗神社のもので水神社の鳥居はずっと手前の公園入口に立っている。
小倉堰の決壊など水難に悩まされた江戸期1800年代に,水の女神である罔象女神[みつはのめ]を祭神として水神社が創建された。罔象女神も高龗神[たかおかみのかみ]も素盞嗚命が火の神軻遇突智命を斬ったときにしたたった血から生じた水をつかさどる神。栃木県に126ある「たかお神社」の高龗神は京都貴船神社の祭神で祈雨祈晴が役割。雨不足のときも降りすぎのときもお祈りした。したがって当地には日本神話の中の水をコントロールする二大巨神が祀られていることになる。
覆屋内には木製祠が三社。左右の祭神は分からない。左右の床に鬼瓦らしきものが保存されている。昭和四十八年1973に西方ゴルフ場造成に際し100mほど移動させられた際に建立された社殿は
帰ってきた栃木県の中世城郭に2016年当時の写真が掲載されており,屋根に鬼瓦が見えるので,それを記念に持ってきた。現在の社殿は瓦がないだけでほぼ同形式で再建されている。明神形式と思しき鳥居も写真が残っている。
「高龗神社」から「社」を抜いて「高龗神[たかおかみノかみ]」と金文字で大書された額には「遷宮記念・昭和四十八年・清酒冨貴社長・飯沼守一」とあり,城址にあった社殿の額を移設している。口三つは省かれてしまったがありがたいことだ。
ちなみにお隣りの水神社額も同じ清酒冨貴八代目社長の昭和四十六年奉納によるもの。近津神社額は昭和四十三年奉納。西方町本郷881の雷電神社額も守一氏が会長になられてから奉納なさっている。清酒冨貴の飯沼銘醸は九代目から「杉並木」シリーズで名を馳せ,現在は「姿」が超有名。西方城址の南東,西方小学校の西に蔵があり,直売店もある。
本殿右手に由来板書が置いてあるが鍵がかかっていて読めない。格子越しの写真では紙垂にはばまれて戦乱のところが読めるが「…祀り…」の部分がまったく見えない。いずれ公開されるものと期待したい。
「…二代目後鳥羽院の文治年中1185~90宇都宮朝綱の…入道恭宗が男近正経始めて此の…江守烏丸景泰と称した。當地は…るを以てこの城を西方城と称したと云う。…代であり西方城を中心として戦禍は絶…城下の…相次ぐ戦火のためその困苦は察するに余…永正十二年1515河原田の合戦永禄六年1563…金崎ヶ原の合戦天正十二年1584小倉川…る激戦であった。…祀り…落城の後も近郷の先祖代々…敬い数百年の今日に及んでいる…古城趾に在ったか時代の変遷に伴う山林開発に…年三月奉遷し改築したものである。」
どうやら昭和四十八年の遷宮の際にどなたかの手により板書されたらしい。西方城の守護神社としてそうとう昔から鎮座したようである。鎌倉時代1192~1333まで遡るだろうか。
覆屋内左手には昭和四十八年1973の関口工務店の棟札。
その裏に,西方城址に鎮座していた時代に,氏子とゴルフ場との間で交わした神社移転に関する契約の要点が書かれている板書。交換する坪数や新参道(ゴルフ管理道)のほかに「乙は…氏子の一員となる」の一文も見える。乙はゴルフ場(真名子カントリー倶楽部)だろう。書き始めと最後は見えない。
西方城址の西の丸の神社跡地は更地になっており,高龗神社情報をお寄せくださった「こんぶちゃ」さんに写真もご提供いただきました。厚く御礼申し上げます。