高椅神社

[たかはし神社]

小山市・高椅702-1

配神:[高龗神]

主祭神:磐鹿六雁命iwakamutsukari,国常立命
配神:高龗神[たかおかみのかみ],木花咲姫命,経津主命,火産霊命,豊受比売命
旧版の配神に「高雷竜命」と印刷してあった。見落としていたが,なるほど,「田」は「口」4つで1つ多いが,まあ似ているか。新版では高龗で載っている。社名の[はし]には「いいぎり」を使っている。
境内に雷電神社,水神社など12社。社名の分かる社は「白幡神社」「鷲宮神社」「上宮神社」「大椙神社」「稲荷神社」「天満宮」「真剣神社」「東照宮」「天建神社」「健田神社」
旧版の45頁に
御祭神 磐鹿六鴈命,国常立命 配祀 木花咲耶姫大神命,高龗命,経津主命,豊受比売命,火産霊神と書かれている。
927年の延喜式神明帳に「下総國結城郡高椅神社」
元禄年間に下野に編入されたため,延喜式神名帳の下野国11社には記録されていない。1800年頃に成立した『鹿沼聞書・下野神名帳』にも記載はない。
楼門は明和七年1770のもの。楼門手前の鳥居には「享保十一丙午年九月吉日」1726の文字。
「文化十五年戊寅九月吉日」1818の石燈籠。
昭和12年1937の狛犬。
明治5年1872に郷社,10年1877に県社。日本武尊が勧請したというから県内最古の社のひとつ。高椅神社と名付けたのが684年というのもすごい。天武天皇の時代だ。
1029頃「日本一社禁鯉の宮」とされ,氏子は鯉を食べない。鯉の絵の器も使わず,鯉のぼりも掲げない。境内地4840坪もすごい。
例祭:10月9日
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)5巻23丁
下都賀郡絹村大字高椅字宮内鎭座 懸社 高椅神社 祭神磐鹿六鴈命 配祀二座天萬命天鏡命 本社は天武天皇二年673の創祀にして元下総國結城郡なりしか元禄年間高椅簗福良の諸村を割きて下野國都賀郡に併す 故に下総國延喜式内にあり
社傳 景行天皇四十一年日本武命駐輦之地今稱白旗丘社西在于二町許 同朝五十三年 天皇御駐輦之地今稱宮内採白蛤之沼今稱御手洗皆在社地 嘉祥四年851授正六位上 長元二年1029授従三位蓋依有大鯉之祥瑞云 建長四年1252源頼朝献祀田 天文元年1532結城政勝改供祀田同二十四年同氏改造神門弘治二年1556同氏修繕神門元龜元年1570結城勝朝改供祀田天正五年1577結城睛朝改供祀田云
本社は延喜年間勅撰により式内に定められ且つ結城政勝より累代崇敬淺からすして殊に結城郡の惣社と定め祀田及ひ社殿を造修す 慶長六年結城秀康越前國福井に移封せらると雖も慶應年間まて本社を崇敬して年々大祭には代拜使あり慶安元年徳川三代將軍家光より社領高三十石の朱印を賜はり仝將軍代々崇敬して御判物を賜はらる 承應元年十一月神主持田若狭京師に上り井を堀り井水を用ゆるを許されんことを奏上して(長元二年より六百二十七年の間村民の困苦を解く)許さる此時本社境内に罔象女神を祀り今尚年々祭祀す 後正徳三年1713八月神主持田氏上京し鯉の合火を解くことを奏上し(氏子村民旅行などの時鯉魚煮焼の合火を知らす識らす食し神の御怒に觸れたることありしを以て)遂に許さる今に民子村民は鯉魚を食はさるは勿論他人も又本社を尊信するものは鯉繪の奉額をなし社殿に掛列ねたる狀宛も魚鱗の如し 明治五年十月郷社に定めめらる 仝十年七月三十一日縣社に列せらる 神主は往古より持田家にて代々奉仕せり 社域五千九百七十五坪平坦の地に位し社殿宏大壯麗にして境内には古橿老杉亭々と高く聳ひ風色嫣然として本社の南に御手洗池(竪七十二問横十九間余)あり東六十間を距る井戸の舊蹟ありて衆庶崇信の社にして日々賽するもの少なからす

 

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