愛宕神社

[あたご神社]

栃木市・大塚町1122

配神[高龗神]

主祭神:軻遇突智神
配神:天照皇大神,応神天皇,高龗神[たかおかみのかみ](『栃木県神社誌』旧版で高雷竜と植字されている神さま),素戔嗚尊,磐裂神
壬生駅と新栃木駅の間の野州大塚駅の北の田園地帯に鎮座。
大正4年の合社記念碑に「昔ヨリ大塚村内ニ在リシ神社ヲ統一シ・・・宿區八坂神社 中區愛宕神社,星宮神社,八龍神社 上區八幡神社 癸生區神明神社,浅間神社ヲ星ノ宮神社千百二十二番地星之宮神社ヘ合併ノ上村社愛宕神社トナシ」とあるうちの「八龍神社」の祭神が高龗神である。合祀されたのは大正4年。
拝殿右手に愛染稲荷。その右手の大きい社殿は八坂神社。明治廿七年の石塔。
由緒沿革によれば永禄八年1565創立。1160坪と広大。春秋の祭典には小松流・平砥流の五段囃子が奉納される。
本殿:流造板葺 拝殿:流造瓦葺 例祭:4月29日
鹿島

鹿島神社

[かしま神社]

栃木県栃木市川原田町1228

配神[高龗神]

祭神:武甕槌命 配神:天照皇大神・菅原道真公・経津主命・(高龗神・大山祇命)
旧地名:下都賀郡吹上村大字河原田
『栃木県神社誌』平成18年版の由緒沿革の記述に「高神社」と植字されているのが実は「高龗神社」であることが当社に参拝して判明した。
神楽殿脇の昭和四十四年1969十一月二日建立の「神楽殿新築記念碑」に「社記に曰く本社は往古より川原田町の惣鎭守神と勧請せしか創立年月詳かならす…」と『下野神社沿革誌』と同文が続く。しかしこちらには「其の后神社合祀により現在地に大正二年1913五月二十八日日光神社三島神社神明宮高龗神社を合祀の上高龗神社跡地に接続地の荒無地を編入六百五十七坪を境内地として同年十一月十日合祀移転終了す…・宮司菱沼千尋撰文」と『沿革誌』以降の貴重な情報が刻まれている。龗字は口みっつの代りに罒で代用している。(碑文は高解像度画像で読めるようにしておきます)
これを受けて平成元年建立の野中輝三撰文謹書の「拝殿建設記念碑」には合祀社に権現神社を加え鹿島と合せて六社を合祀と記されている。この六社はかつて三日月神社西隣りの栃木市運動公園中央部(現在地から900m南西)に当たるところに鎭座したが,明治三十五年1902の台風で倒壊してしまい鹿島神社を中心にして現在地に遷宮したとの説が『栃木県神社誌』に載っているが,碑文によれば高龗神社はほぼ現在地にあった。現在の境内地は712坪。
高龗神社については本ページ一番上の「おかみ考」をご覧いただきたい。当社の北西1キロの木野地と木に高龗神社が鎭座する。
昭和十六年1941狛犬。平成二十二年改修の石燈籠。昭和三十五年1960社号標。
別当は『下野神社沿革誌』と石碑に石陞院とあり,『鹿沼聞書・下野神名帳』は恵性院で異なるが河原田の鹿島は他に記録されていないので以下にあげておきます。なお,『下野神社沿革誌』も石碑も阝の右はつぶれていて陞[しょう]は推定です。(2019/8)
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 鹿島大明神 河原田 恵性院
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-12丁
下都賀郡吹上村大字河原田鎭座 村社 鹿島神社 祭神 武甕槌命 祭日陰暦三月十九日九月十九日
建物本社間口二間奥行二間栃葺 雨覆間口三間奥行三間杉皮葺 拜殿間口三間半奥行二間瓦葺 神樂殿間口二間奥行三間杉皮葺 石鳥居一基 石燈籠一基 氏子百六十戸惣代四員 社掌芹澤彦八仝村仝大字一一二番地住
社傳に曰く本社は往古より惣鎭守神と勸請せしか創立年月詳かならす 地頭澁谷氏より五反餘歩の祭田除地を寄附あり 別當石陞院にて維新前は奉仕せり 除地は維新と共に上知せらる 神官は木村氏兼務となりしか明治十二年1879二月より芹澤氏奉祀せり 社域千百二十坪にして鳥居前に一小の神池ありて此の下流箱の森沼和田牛久川連土輿の部落此神池より流出する水を以て灌漑の用に供す 故に五ヶの部落及ひ此水を用て水車業を營むものは皆祭典の日には神饌料を供して報賽する例あり 境内には老杉古樹蓊欝として矗立し神寂ひて雅致あり
本殿 千木つき
神楽殿両側に石碑 神楽殿新築記念碑クリック拡大 高龗神社の文字
拝殿建設記念碑 高龗神社の文字
紀元二千六百一年奉納
古い方の手水石 入口
鎭座の森 境内東側
春日

春日神社

[かすが神社]

栃木県栃木市大久保町627

配神[高龗神]

祭神:天津兒屋根命 配神:武甕槌神・経津主神・比賣神・大日靈貴神・伊耶那伎神・伊耶那美神・須佐之男神・大国主神・高龗神・磐裂神・根裂神・多紀理毘賣神・大山祇神・迦具津智神・味耜高日子根神
承平六年936藤原秀郷によって創建された古社。寿永元年1182大風で倒壊,応永三十三年1426佐野師綱が再建。天正年間1573~92に焼失,慶長二年1597再建。本殿はこのときに造営したもの。明治五年1872拝殿造営。昭和四十一年1966台風26号で倒壊したため翌年改築して遷宮。
以上の由緒は平成六年拝殿幣殿新築記念碑の裏面にもう少し詳しく刻まれている。道路側の平成二十五年建立の碑には由緒沿革と祭神,配神が書かれていて,配神に口みっつつきの正字で「高龗神たかおかみのかみ」が刻まれている。
明治二十五年1892石鳥居。明治四十年1907旗杭。鳥居手前の下部が土に埋もれた「莫神門入不浄…(不浄なるもの神門に入るなかれ)」石塔に小細字で「鎮守府將軍従四位下武蔵守秀郷‏/守▢神鶴巻鎮座藤原宮」と謎の文字。奉納年は読めない。鎮と神は旧字体ではない。▢は「筆」に似た字。当地の小字は弦巻だが鶴巻と刻字。すると「藤原宮」と称したことがあった? この石塔は後世奉納,それとも超貴重品? 謎である。
鳥居右下に「文化七庚午歳1810」石塔。これは石燈籠の柱か。
平成九年玉垣柱に春日神社社号。
「文政四辛巳天1821奉納春日大明神御廣前」石燈籠一対。昭和七年1932手水石。平成六年狛犬。
境内右手の石燈籠月石宮は明治三十六年1903。石燈籠に「金光山廣前」
「てらお すてき発見案内パネル・八朔が近づく夜の祭ばやし」(2019/8)
例祭:10月15日 5月1日梵天祭 7月第三日曜日に八坂神社の天王祭
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 正一位 春日大明神 大久保 小倉和泉
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
正一位 春日大明神 大久保村鎮座 祭主小倉氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-14丁
下都賀郡寺尾村大字大久保字弦巻鎭座 村社 春日神社 祭神 天津兒屋根命 武甕槌命 斎主命 姫大神 祭日陰暦四月十五日九月十五日
建物本社間口五尺二寸奥行四尺四寸小羽葺 拜殿間口四間奥行二間杉皮葺明治八年1875再建 幣殿間口二間奥行二間杉皮葺明治二十五年1892再建 石華表一基 石燈籠一基 氏子五十七戸惣代三員 社掌小倉豐次郎仝村大字仝三十七番地
社傳に曰く本社創立は承平六年936九月十五日當國佐野に鎭座せる春日神社を遷座す 佐野家代々崇敬の神社にして慶長二年1597佐野秀綱本社再建す 佐野家滅亡以後は氏子にて保存せしか明治五年1872縣郷村社々格改定に際し第一大區四の小區の郷社となる 其區内村々は大久保梓中形尻内梅澤鍋山出流星野永野の九村にして神主は往古古田村と稱せしか故ありて小倉と改め奉仕せり 維新郷社となりては小倉豐光は祠宮にして祠掌は大館兼通なりしも明治十年1877行政區畫改正に際し村社に列せらる 本社拜殿とも壯麗にして氏子の敬神滋々凝結の意を顕し明治廿五年1892花崗の大石を以て一大華表を建設し正二位勲一等佐野常民の揮毫せし神號の大額をも奉納あり風色嫣然として掬すへし 社域百八十坪余境内狭小と雖も高燥にして古杉老樹蔚々蒼々として春の花秋の紅葉の類社殿に接し幽静にして愛すへし 又田甫を隔て坤位には永野川滾淙々として鳴り以て耳を洗ふに足るへし
春日社 拝殿右手
莫神門入不浄
幣殿拝殿新築記念碑裏 祭神など
高龗神
金光山廣前石燈籠
春日神社額
文化七歳1810 巨木があった
軍馬霊神 てらお すてき発見案内パネル

 

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