主祭神:国常立尊・国狭槌命・豊斟渟尊
境内社:稲荷神社・加波山神社
大同元年806創建説も建久創祠説も伝わる。つまり創立年代不詳。建久年間1190-99八田知基によって茂木桔梗城が構築されると,北東(艮=うしとら)の字高藤山に位置するところから鬼門除けの役割を果たした。
芳賀郡では真岡の大前神社と並んで延喜式内社の指定を受ける。延長五年927に編集を終えた延喜式神名帳には下野では11社のみが記録された。つまり由緒正しい格式の高い神社ということになるが,嘉永三年1850刊の
『下野国誌』では当社は式内社に比定できないとしている。国誌に「大前神社の相殿に祀りて」とある真岡大前神社の天明三年1783銅燈籠に「大前大権現・荒樫大明神・御寶前」と刻まれていて,境内社としては姫神神社と荒樫神社がひとつの木製祠に祀られており,宝永六年1709の社記にこの境内社荒樫神社が大前神社神苑にあったことが書かれているという。小宅文藻は真岡大田和村樫ノ本にあったが焼失し大前の相殿になるとした。
天明には編集を始めていた
『鹿沼聞書・下野神名帳』に小井戸の当社はすでに「荒橿三社大権現」で記録されているので,真岡の荒樫と小井戸の荒橿は銅燈籠奉納の時代には別々に存在していたことが分かる。また,別当は寺院でなく,小松右京と記録。時代的にみて国粋主義によって高藤権現から荒橿と改称したとの説は否定される。ではいつから荒橿を名乗っていたかについては栃木県には鹿沼聞書より古い古記録が発見されていないので,不明である。なお,維新の神仏分離以前の称号が分かる
『下野掌覧』では荒橿三社大權現ではなく小井戸の荒樫神社で記録している。この編者は寺持ち,村持ち,権現は除外しているのだが,式内社は外すわけにもいかず,やむなく延喜式の称号で載せただけかもしれない。もしこの記述が正しければ1860年までに荒橿三社大権現から荒橿神社に改称したことになる。
下総国結城郡に属した高椅神社が小山に加わって栃木県の式内社は12社になっている。このうち現在社に異論のある論社として大神,村檜,二荒山神社と当社があり,1100年という時の長さを感じる。荒橿神社については大前に合祀説は,はたして式内社に記録されたような社が戦乱または災厄で荒廃・焼失したとして同格との理由で式内社に遷宮するものだろうか,また隣接二社が指定されるだろうかという疑問が残る。
茂木みちの駅の北東,茂木町の中心部から逆川を渡り,北に坂を500mほど上った高所に鎮座。巨木の残る気持ちのいいところである。
昭和二年(?五?読みにくい)一の鳥居手前に縣社昇格記念碑があり右手に環境省の立てた簡単な解説板がある。このまま読むと創建は300年ほど新しくなり延喜式には記録されない。神社が先にあったか築城にともなって創建したかは小生には分からない。口伝が混乱しているというより,50年前の『栃木県神社誌』編集の際のアンケートに応えて由緒の原稿を寄稿なさった方が,せっかく「創立年代不詳」で始まりながら,つづいて「大同元年…鬼門除社として…創祠された」と書いてしまった。その半世紀前の『下野神社沿革誌』を参考にしていれば混乱しなかっただろう。沿革誌は実際は西南だが「西北に城あり」と記述しているくらいなので,鬼門の意識はなかった。『栃木県神社誌』新版では「創立年代不詳」も消えてしまい,年代矛盾がそのまま看板やWebに拡散してしまった。この鬼門除け創建説が小井戸の荒橿神社は式内社ではないとの理由に利用されているのは残念である。
なお,栃木県の神社の多くはその由緒を『下野神社沿革誌』によっており,まったく同文の場合もある。
右手に「延喜式内縣社荒橿神社」社号標。鳥居手前左手に古風な社号標。これは社号の下に二行が刻まれているが,読めない。昭和二年1927『栃木県誌』に記載された「入口の左手に古々しき苔むしたる石に〔荒橿神社/下野國十一社〕と刻せる碑あり」にあたるだろう。明治十四年1881「石階寄附連名」稗。
境内には杉の巨木が多数聳え,参道右手に樹高およそ45メートル,樹齢700年を超えるケヤキが新芽を吹いて天を衝いている。左手に覆屋で保護されているのは室町期永禄年間1558-70建立の三重塔の初重,一層部分。
大正三年1914手水石。昭和七年1932狛犬。明治四十三年1910郷社指定記念(二度目の指定?)。昭和四十年1965拝殿改築記念碑。昭和25年1950境内地譲與記念碑。
ご実家が社の裏あたりにあり,小学生の頃は境内が遊び場だったという宇都宮二荒町の「火あぶり」亭主にご案内いただいた。感謝。
祭日:4月17日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃成立
芳賀郡 荒橿三社大権現 茂木村 小松右京
*『下野国誌』嘉永元年1848脱稿 嘉永三年1850刊行
鎮座祭神とも詳ならず いつのころよりか大前神社の相殿に祀りて,大名持ノ命ノ男,事代主ノ命なりといふ また同郡茂木郷小井戸村なる高藤権現といへるを,近来荒樫ノ神社なりと称して,茂木郷の牛頭天王の神主小松某兼帯し,祭神は国之常立ノ尊,国狭槌ノ尊,豊斟渟ノ尊の三柱なりといへど,さらに其證なし さて阿良加志神社,阿良加志比古神社は能登国にもあり そもそも神名帳に国之常立ノ神を祀れる社はあることなし 凡て此神を祭り給ふことは,古書に見えたることなしと,本居宣長いはれたり 伊勢の外宮も国之常立と云説ハ非なり,是ハ豊受の神なりと古事記伝にも記されたり さて大前神主忠寛が云,小井戸村にたてる社ハ三代実録に見えたる伊門ノ神にはあらざるか井戸と伊門とハ假字(カナ)ハたがへど後世書誤りしもしるべからずといへり また同郡八木岡村にも,今荒樫明神と唱ふる小祠あり されど是ハ康永二年1342八木岡伊織,宇都宮をうつすと舊記にあれバ論なし
*『下野掌覧』万延元年1860
延喜式ニ載タル當國十一座 荒樫神社 小井戸村ニアリ 祭神国常立尊国狭槌尊豊斟渟尊ナリ 大宮司小松氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻六・26丁
芳賀郡茂木町大字小井戸字高藤鎭座 延喜式内郷社 荒橿神社 祭神 國常立命 豊雲野命 阿夜河志古泥命 祭日二月十五日/七月廿五日
建物本社二間四方 拜殿間口四間半奥行二間半 雨覆間口五間奥行六間 幣殿二間四方 石華表一基 末社一社 盥漱盤一個 祭器國旗小幡昌訓奉納 幕二張岩崎吉三郎/近澤重次郎奉納 社有財産田六畝二十一歩 氏子百三十戸惣代三員 社司欠社掌小幡昌訓仝町住 仝岩崎吉三郎仝町住
本社創立年月遼遠にして詳かならすと雖も延喜式内下野十一社にて往古より武門武將の敬する所にして建久年間1190-99八田定義子孫代々崇敬せしか元龜年間1570-73義繁の代織田勢に城陥る 義繁逃て佐竹義宣に倚る 後須田春則長谷川七右衛門之を領し慶長年間1596~1615細川興元代て領主となるも世々崇敬せり 而して茂木郷の惣社にあり 明治四年1871茂木藩の藩社となり仝六年郷社と列せらる 享保六年1721十一月本社再建 仝年十二月領主細川主馬黑木の華表一基奉納 宝暦四年1754四月修繕 明和八年1771九月拜殿修繕 天明九年1789正月領主細川家にて家根葺替 文政文久1818-64の兩度修繕 (元号なし・明治)十四年九月一百七十五階の石磴を新設し仝三十四年本社拜殿家根替す 社域一千九百十四坪高燥の地にして本社巽方に清泉有りて(小井戸と云)方六尺にして周圍に石をたゝみ本社の神水と稱し其水清澄無比にして旱霖共に満涸なく常に平水なり(小井戸の村名此より起れる哉)又不動瀧あり(高二丈四尺二段にして風景絶なり)手洗瀧と稱す 又西北に城山あり(桔梗城と云ふ)面積十町余歩恰も小蝶の伏したる如きの地形をなし眺望絶景の地なり 境内には古橿老杉森々と繁茂し本郡第一の社境にして晝尚暗く幽邃閑雅にして四時の眺めに富るの地なり 社頭の古歌に「荒橿の松の注目縄なかゝれとかけとそ祈る民の榮哉」
【参考】
大前神社 伊門ノ神
荒橿神社の南西に桔梗城趾は城山公園になっている。頂上手前のカーブに石鳥居。額にひらがなで「たばこ神社」とある。
昭和三十年1955創建。たばこ神社は全国に28社確認されている。
昭和三十二年1957十月奉納の狛犬は目がブルーで,いい表情。
社殿左手に,たばこ耕作の改良発達に尽した,たばこ先生こと三上宗太郎翁の彰徳碑。となりの大正十三年1924落成式挙行紀年稗は専売局茂木庁舎にあったのだろう。
かつてはたばこの専売公社が茂木にあって,たばこ栽培も盛んであったが,1977年に公社工場が閉じられ,栽培も廃れてしまった。例祭は現在も執行され,配られるゆでタマゴにはボケ封じのご利益があり,中風にならないという。
左手は行き止りになっていて,戊辰の役以降の茂木町出身の英霊をお祀りし,昭和四十五年1970建立の忠靈塔がある。
茂木の中心部を見下ろす絶好の立地。
町長さんのホームページ参照。
例祭:4月14日