4
ローマの詩人オウィディウスの『転身物語』は神々や人聞がさまざまな自然や動物に変身する話を集めたもので,その巻三,ナルシスの話に泉の描写がある。
さてここに一つの清洌な泉があった。その水は銀色に輝き,いまだかつて牧人も山に草を吟む牡山羊も,その他どんな家畜もここを通ったことがなく,鳥や野獣や樹から落ちた小枝でさえ,その水をみだしたことがなかった。泉のまわりには,その水で命をささえている草地と,太陽も射しこまない深い森がひろがっていた。
水の妖精リリオペとケピスス河神の間に生まれた,それ故もともと水に親しいナルシス16の春,猟と暑さに疲れ,彼はこの美しい景色と泉に惹かれて泉のそばに身を横たえた。ここに予言者ティレシアスの「もしおのれの姿を知らねば長生きするであろう」との予言が真実となって,ナルシスは白い花弁にかこまれた一輪のサフラン色の花,水仙に転身するのである。 オウィディウスの描写に注意しよう。この泉は秘密の場所,薄暗い森の奥にあって,落葉さえ水の面を乱してはいない。ローマ・トレビノの泉ではナルシスは死に至るはずがない。魔術的泉の水鏡こそ,ナルシスの死に値するのだ。
おお碧玉の水よ わが悲しき美によって優悩している 私はもはや魔術師の水しか愛することができない S・マラルメ
シェリーの
黄色い花々は水晶に似た静けさに映る己れの物憂い眼を永遠に眺めている
という絶望的な美しい詩句が成立つためには,泉は水晶に似た静けさをたたえていなければならない。
もとよりサフラン色の花が水鏡を見つめるわけではなく,ここにはもちろんナルシスの姿が二重写しになっているわけで,花々は死して泉に落ちるまで,自分と同化できないのだから,シェリーのいう永遠は絶望的永遠であって,その裏に性のにおいがする。キーツの「この聴えないメロディーはより美しい」に触発された「石に刻まれた目は永遠に開く」という時の,一種乾燥した明るい永遠よりもみずみずしい響きがある。みずみずしさは「いずみ」とは決して切り離せないのだ。
平らかの深き泉よ泉の鏡が深さを持つことはことさらいうまでもないが,ここで「太陽も射しこまない深い森がひろがっている」泉のまわりの自然が,ナルシスののぞいた水に映っているのを想像しよう。ここは,シュレーゲルのいう,世界で最も美しい場所なのだ。薄明のはかない水鏡が写し出す裏返しの自然の中の裏返しの自己。この自己が,内面性,しかも人間くさい内面性などとは全く無縁なのもいさぎよい。本来的に人間も自然と同一なのだから,内面の美は若々しい少年とは無縁なのである。そして水そのものに,とりわけ湧き出る水には,本質的にみずみずしさと,わかわかしさ,清さが宿っている。
ナルシスは泉に映る自分の姿だけを見たのではなく,自然の中の,自然と同一の自分を見たのである。
オウィディウス描くところの自然に囲まれた十六のナルシスという自然。
鏡の二次元平面を超越して,深さを持つ泉の水鏡の中に,裏返しの三次元の自然を素直にイメージしたのだ。
そしてナルシスにとって「自然は神秘的に美しい,故に私は美しい。私は美しい,故に自然は美しい」という論理が成立するためには,泉の水鏡が不可欠だったのだ。
さらに夢想するなら,ナルシスは泉そのものに肉体と魂を捧げたのである。
柔らかく私によって抱き擁へられている泉よ 力も萎えて嫋々と抱き擁へしわが泉
悲しい水が 私を引き奇せる 蒼白の境に…
われは汝を飲まむばかりに寄り添えり
そして冷やかに目のうえにある水,清浄無垢にして甘露の水。この水に映る自己に魅せられ,泉の底に死を追うナルシスがいたところで,泉にとっては一つの劇ですらない。
人の心を和ぐる水よ 汝にとりて 一切はこれ夢幻なり 運命の静かなる妹よ P・ヴァレリー