大前神社

[おおさき神社]

栃木県真岡市東郷937

祭神:大己貴命・事代主命 配神:天祖大神・皇祖大神・八百萬神
境内社:稲荷神社・子安神社・二宮神社・琴平神社・稲荷神社・雷神社・琴平神社・大物主大国魂神社・皇大神宮・姫神神社・荒樫神社・大杉神社・天満宮・荒神社(素盞嗚神)・淡島神社・稲荷神社・明眼神社・足尾山神社・古聖神社
延喜式内社下野国十一社のひとつ。境内社は『栃木県神社誌』記載の12社より多く祀られている。
宝物文書に「平家物語・大前神社本十一巻」「延喜式出雲版本五十巻・享保本」「大日本史百巻」「宗版大般若経六百巻」がある。
『下野国誌』を著した真岡の偉人,河野守弘撰書の天保十年1839「永代大大御神楽之碑」が両部鳥居前に建てられている。題字の隷書は五江足達元善,本文原稿は神主源忠義。「守弘志るす」と読めるので本文文字を書いたと推測する。
[おおまえ]と呼ぶ方があるとのWebもあるが,地元の40代の氏子の方は,子どもの頃からそんな呼び方はまず聞いたことがない,[おおさき]と呼んでくださいとのこと。
「おもかるコイ石」に似た言い伝えに徳次郎町の神明宮の「おしんめさまの狛犬」や石那田の「うらない仏」がある。
大きな神社なので小生が付け加えることはない。[大前神社HP]をご覧ください。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』(1800年頃)
大前神社 大前神社(芳賀郡東郷大前) 神宮寺 風野靱負
*『下野国誌』嘉永元年1848脱稿 嘉永三年1850刊行
芳賀郡東郷大前と云所にあり。真岡町の東の方にて八町許なり。圭田八石,別當神宮寺,神主風野筑前守配當す 神宮寺ハ天台宗にて,真岡般若寺の末寺なり。般若寺ハ則大別當にて別當神主の冠たり されバ大前山般若寺と号す 最モ寺領ハ別に圭田ありて,社領にはかゝはらず,祭礼は毎歳九月十九日廿日にて頭touと唱ふ 古へハ猪鹿の頭を供して祀りしを中頃より般若寺進退して,大般若経を轉読すれバ芋頭を以て頭にかふる 祭神ハ乃チ都賀郡大前神社に同しく大名持命なり 當社ハ大前権現と唱へて,大内庄三十三郷の惣鎮守なり 内陣に宋板の大般若経六百巻を蔵めたり 巻毎の末に明徳三年1392壬申十一月六日下野州大内庄大崎權現社頭奉寄置,願主隼人佐大江宜村と記したり また平家物語の古寫本十二巻ありて巻毎の末に天正十六年1588戌子八月奉納芳賀伊賀守清原高継と記して花押あり 是ハ花押叢にも載たり また太刀一口あり 是ハ高継か先祖芳賀左兵衛入道禅可の寄セ置く所なりと云傳へたり 長三尺許にて無銘なり 最モ焼刃するどく,にえにほいの容躰尋常の物とハみえず
*『下野神社沿革誌』巻6-3丁(明治三十六年1903)
芳賀郡眞岡町大字東郷字大前鎭座 延喜式内縣社 大前神社 祭神 大己貴命 事代主命 配祀荒橿大神 天祖天神 皇祖大神 八百萬神 建物本社間口二間半奥行三間銅葺 拜殿間口八間奥行三間栃葺 幣殿間口二間半奥行二間栃葺 神樂殿間口二間奥行三間 參籠所間口五間奥行三間 社務所間口六間奥行三間 末社八社 唐金燈籠一基 石燈籠四基 石華表一基 木鳥居一基 寳物平家物語寫本全部‏/眞岡城主芳賀伊賀守清原高繼奉納天正十六年1588八月執筆能海 太刀一口芳賀佐兵衛尉清原高名奉納観應三年1352辰九月 唐宋大般若經六百巻三藏法師玄奘奉詔譯隼人佐大江宣村寄付明徳三年1392十一月六日 扁額一面‏/花山院内大臣愛徳公筆眞岡町塚田某寄付文化十一年1814十二月十九日 大日本史百巻‏/浦和縣權大參事小山朝広寄付明治三年1870正月吉日 延喜式全部‏/芳賀郡大内村大字上太田和小野寺隆鷹寄付明治二十七年1894九月廿三日 氏子二千三十八戸惣代二十八員 社司大和田茂教‏下都賀郡瑞穂村大字眞弓住 社掌柳田茂平仝住所‏/箕輪正治大内村大字飯貝住
本社の創立年月詳かならされとも古老の口碑に依れは神代の靈跡にして後神護景雲年間767-770に至り社殿大に荒廢せしかは氏子及ひ信徒等協力して改築せりと云ふ 後天正年間1573-92兵爕に罹りて社殿悉く烏有に歸し古記録灰燼す 爲に天正1573-92以前の沿革盛衰は知るに由なし 而れとも往古より大内庄三十三郷の惣鎭守にして眞岡城主芳賀氏代々崇敬の社なり 慶安元年1648十月十八日徳川将軍家光より祭祀料として朱印地八石を賜り寛文十一年1671二月九日領主小田原侍従正則より除地八石余を寄附し以て神饌の料と定め神主風野氏別當神宮寺(明治維新の際復飾前田と改む)を置き常に奉仕せしむ 後今の社司社掌に改たまる 仝二十五年内務省より保存資金として一百圓を下賜せらる 又氏子塚田直四郎,飯田市太郎の二氏より若干の寄附地あり 明治六年1873郷社に列し仝十八年縣社に昇格す 社域二千二百四十九坪老杉古檜蓊欝し左に五行の清流あり右に田園綿亘し社背に一の池ありて芳賀沼と名つく 池大ならさるも其水清冽にして池邊の風景頗る佳なり
四の鳥居 一の鳥居 二の鳥居
二の鳥居下 三の鳥居 稲荷神社
子安神社 延喜式内大前神社
永代大大御神楽之碑 天保十年1839 守弘の文字
大前恵比寿神社 おもかるコイ石 紳使鯉の話
銅燈籠と狛犬 極彩色の龍
神楽殿
稲荷・琴平神社 荒神社
天満宮
大物主神大国魂神社 皇大神宮
明眼神社と淡島神社 足尾山神社
交通安全祈願 バイク安全祈願
本殿解説 御神木椎樫スダジイ・木之霊
手水舎
若宮社・水神社 鯉の占い石
寛政三年1791二十三夜供養塔 鎮座の杜 五行川
付近の東郷陣屋趾 付近の安永四年1775十九夜供養塔など

【荒樫神社関連】 樫=橿
『栃木県神社誌』平成18年版の大前神社の項に,延喜式内社の「芳賀郡二座大前・荒樫両神社を同地に祀る」とあり,茂木小井戸の荒橿神社は式内社ではないとの立場をとる。
天正年間1573-初期に兵火により古記録の大半を悉く焼失,観応(北朝)三年1352寄進太刀,大般若経六百巻,大黒天像は難を逃れた。焼失から130年ほど後の宝永六年1709の社記に荒樫神社が大前神社神苑にあったことが書かれているという。現在は姫神神社と荒樫神社がひとつの木製祠に祀られていて,そこの解説板ではこの荒樫神社が式内社にあたると読めるが,天明三年1783銅燈籠に「大前大權現・荒樫大明神・御寶前」と刻まれているところから,式内社を祀るなら本殿に相殿だろう。もう少し詳しい解説がぜひ欲しい。(茂木小井戸の方の社号は200数十年前に明神ではなく「荒橿三社大權現」と記録されている)
下太田和に荒樫神社があったとする説もあるが,下野は11社のみなので,大前神社と2キロも離れていない隣接社を指定するだろうかとの疑問が残る。後日参拝した「古聖神社」の由緒書きにとんでもないことが書いてあるので下をご覧いただきたい。
銅燈籠の胴の上段に「天明三年癸卯九月吉祥日」と刻まれ,下段に「明治廿三年十月」と刻まれていて悩む。「明」と「年」の書体が同じに見える。文字は後から刻んだのだろうか。解説が欲しい。
銅燈籠
上段に社号 大前大権現・荒樫大明神
下段に両社御寶前 天明三年1783 明治廿三年
姫神神社・荒樫神社 拡大
大前神社両部鳥居手前の永代大大御神楽之碑建立に加わった河野守弘は次のように記す。
*『下野国誌』河野守弘著 嘉永元年1848脱稿 嘉永三年1850刊行
荒樫神社 鎮座祭神とも詳ならず いつのころよりか大前神社の相殿に祀りて,大名持ノ命ノ男,事代主ノ命なりといふ また同郡茂木郷小井戸村なる高藤権現といへるを,近来荒樫ノ神社なりと称して,茂木郷の牛頭天王の神主小松某兼帯し,祭神は国之常立ノ尊,国狭槌ノ尊,豊斟渟ノ尊の三柱なりといへど,さらに其證なし さて阿良加志神社,阿良加志比古神社は能登国にもあり そもそも神名帳に国之常立ノ神を祀れる社はあることなし 凡て此神を祭り給ふことは,古書に見えたることなしと,本居宣長いはれたり 伊勢の外宮も国之常立と云説ハ非なり,是ハ豊受の神なりと古事記伝にも記されたり さて大前神主忠寛が云,小井戸村にたてる社ハ三代実録に見えたる伊門ノ神(注)にはあらざるか井戸と伊門とハ假字(カナ)ハたがへど後世書誤りしもしるべからずといへり また同郡八木岡村にも,今荒樫明神と唱ふる小祠あり されど是ハ康永二年1342八木岡伊織,宇都宮をうつすと舊記にあれば論なし
(注)益子亀岡八幡宮境内社/鹿沼市下大久保の大芦神社
*『鹿沼聞書・下野神名帳』天明には採録を開始し1800年頃成立
芳賀郡 荒橿三社大権現 茂木村 小松右京
上記『下野国誌』の著者河野守弘と協力して『下野國圖』1849をつくった真岡住の画家小宅文藻[あやも]の『文章雑記』は次のように記す。
芳賀郡下大田和村樫ノ本と云坪名存せり 田中に小社あり 土人大前神社の旧跡と云,この地荒樫神社の旧地なるべし 世乱れし時焼失○して氏子等再建不届,与儀無く近き大前の神社へ相殿に祭り…
古聖

古聖神社

[こひじり神社]

栃木県真岡市東郷字小聖

主祭神:事代主命 配神:聖徳太子
大前神社の境内社として古聖神社が記録され,境内には見つからなかったのでここがそのようだ。大前神社西側駐車場入口からは100数十メートルか。
昭和53年1978に書かれ,平成9年に建て替えられた由緒看板がある。下の方が読みにくいが大筋は分かる。ここに驚くべきことが書かれている。
「大前神社と並び建てられていた荒橿神社が二社の維持困難のため大前神社に合祀せられ」,つまり,焼失したり荒廃したのではなく,経済的合理性から大前に合祀したと読める。しかも合祀の後の貞観四年の年号が問題となる。
つまり、延長五年927年に『延喜式』の巻九・十として成立したのが「延喜式神名帳」なので,貞観四年862より65年後になる。
この再建由緒が正しければ,真岡で延喜式に記録されたのは大前神社だけということになる。延喜式内社は下野国では11社しか記録してくれなかったのである。荒橿神社は延喜式成立の65年以上前に大前神社に吸収されているので,延喜式神名帳が相殿をわざわざもうひとつの社のように記録する合理的理由はない。合祀された真岡の荒橿神社は延喜式に記録された社ではなく,後世荒橿を自称した社にすぎないことになる。古聖神社の由緒には,たしかに荒橿神社が延喜式内社であるとは書かれていない。
この由緒が大前神社本殿の西300メートルにある古聖神社に伝わっていることはけっこう重要だと思うのだが,出所が明らかでないので,素人考えか。1100年の時の隔たりは大きい。
再建由緒 この古聖神社は古く延喜式内社○る大前神社と並び建てられていた荒橿神社が二社の維持困難のため大前神社に合祀せられ○後,貞観四年(西暦862)円仁(慈覚大師)が大前神社と天台宗黒子の千妙寺とが習合し神仏混交○た○別当として小聖に大前山般若寺○田○地○○○東○川べ○○創立したとき,境内社として小社を建て守護神としたものであります。般若寺が移転した後もこの小社へ古聖神○を残し氏子が毎年十一月十五日を期し…北真岡区画整理事○…真岡市の援助を得,又信徒の寄進によ小社再建し小聖(古聖)の名を残し子…に中郷大日堂も般若寺の縁起と同時○古聖神社と同方角に建てられたものであります。昭和五十三年1978十一月二十三日午前十時 付記,平成九年十一月二十三日この由緒書を再建す 総代誌す
由緒書 少し拡大・色補正
古聖神社 手水石
左手 右手 右奥の森は大前神社

【参考】→茂木の荒橿神社

 

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