沙門しゃもんしょうどうれき山水さんすい瑩玄珠えいげんじゅ

空海くうかいいたしょうどう上人しょうにん伝記でんき

別名べつめい日光にっこうさん」「二荒ふたらさん」「しょうどう碑文ひぶん」「開山かいさん碑文ひぶん

沙門しゃもんしょうどうれき山水さんすい瑩玄珠えいげんじゅ 并序ならびにじょ 沙門しゃもん遍照金剛へんじょうこんごうぶん并書ならびにしょ <せいれいしふ
沙門勝道厯山れきさん瑩玄珠碑 并序  沙門遍照金剛せん <神護じんごぞう
じょう補陀落ふだらくさん <宝永ほうえい二年1705銅板どうばんだい

蘇巓そてん鷲嶽じゅがく 異人いじんところとする 逹水龍坎だっすいりょうかん 靈物れいぶつ斯在ここにあり 所以ゆへん異人いじん卜宅ぼくたくする 所以ゆへん靈物れいぶつ化產かさんする あに徒然とぜん乎 ならんや請試こふこころみに論之これをろんぜん
それ きょうしたがってしんにへんず しんけがるるときはすなはちきょうにごる しん逐境移きょうをおってうつる 境閑きょうしづかなるしんほがらかなり 心境しんきょう冥會みょうえ 道徳どうとくはるかにそんす いたり如 のうじゃくつねにこしてもって利見りけんし みょうじょう鎭住とこしなへにじゅうして以接引もってせういんし 提山だいせん垂迹すいじゃく 孤岸こがん津梁しんりょう ならびにみな靡不ずといふことなき→ より仁山じんさんについて智水ちすいに 臺鏡だいけい瑩磨えいま 俯應←ふおうするにあら機水きすいに 者也←ものなり
あり沙門しゃもん勝道しょうどうなるもの 下野しもつけ芳賀はがの人也ひとなり 俗姓ぞくせい若田わかたうじ たましひはるかにして救蟻きゅうぎよはいに こころきよし惜囊之しゃくのうのとしに  桎枷しっかなりとし四民しみんせいじを 調飢ちょうきたり三諦さんたいめつごふに  いとふ聚落じゅらく轟轟ごうごうたるを あおぐ林泉りんせん皓然こうぜんたるを
粤有ここにあり同州どうしゅう補陀洛ふだらくさん 蔥*嶺そうれい挿銀漢ぎんかんをはさみ 白峯はくほうつく碧落へきらく 磤雷たんらい腹而はらにして鼉吼たのごとくにほえ しょうほう足而あしもとにして羊角ようかく 魑魅ちび罕通 とうすることまれに人蹊也じんけいたへたり 借問しゃもん振古いにしへより いまだあらずよじ躋者のぼるもの
法師ほうし顧義成ぎじょうをかへりみて而興歎 なげきをおこし仰勇猛ゆうもうをあおいで以策意もってこころをはげます ついにをもっていにし神護じんご景雲けいうん元年767四月上旬ふみあがる ゆきふかくいわおさかしうして 雲霧うんむ雷迷らいめいして 不能あたはずのぼること也 かえってじゅうすること半腹はんぷくに さんしち日而にちにして却還しりぞきかへる
またてんおう元年781四月上旬 さらにこととす攀陟はんちょくを またのぼる不得ことをえず
二年782三月ちゅうに 奉爲おんためにしょ神祗しんぎの 冩經きょうをうつしずしほとけを 裳裂もをさいて裹足あしをつつみ 弃命いのちをすてて殉道どうをもとむ 繦負きょうふして經像きょうぞうを いたる于山麓さんろくに  讀經どきょうれいふつ いちしちにち  けんはつしてちかいいはく  もし使…をして神明しんめい有知しることあらしめば  ねがはくはさっしたまへ我心わがこころを  わがところの圖冩ずしゃする經及像等きょうおよびぞうとう  まさにいたり山頂さんちょう  ためしんの供養くようして  以崇神威もってしんいをあがめ  ゆたかに群生ぐんじょうのふくを  あおぎねがはくは  ぜんじん加威いをくはへ  毒龍どくりゅう巻霧きりをまき  山魅さんび前導ぜんどうして  たすけはたせ願我わがねがいを  我若われもし不到いたらず山頂さんちょうに  また不到いたらず菩提ぼだいに 如是かくのごとく發願ほつがんおはって  わたって白雪はくせつ皚皚がいがいたるを  よじる綠葉りょくよう璀璨さいさんたるを  脚踏あしふむこと一半いっぱんにして つかれ力竭ちからつき 憇息けいそくすること信宿しんしゅくにして つひにみる其頂そのいただきを 怳惚こうこつ怳惚こうこつとして にたりゆめににたりさめたるに 不因よらずしてのるにうききに たちまちにいり雲漢うんかんに 不嘗なめずして妙藥みょうやくを えたりみることを神窟しんくつ 一喜いっき一悲いちひ 心魂しんこん難持たもちがたし
 やまたるやかたち也 東西とうざいりゅうのふせるが 彌望びぼうするに無極きはまりなし 南北なんぼくとらのうずくまるがごとく 棲息せいそく有興きょうあり さして妙高みょうこうを以爲儔ともがらとなし ひいて輪鐵りんてつをなせりおびと わらい衡岱之こうたいの猶卑なおひくきことを あざけり 崐香こんこうまたれつなることを  日出ひいでてまずあきらか 月来つききたりておそくいる  不假からずして天眼てんがんを 萬里ばんり目前もくぜん なんぞさらにのらんこくに  白雲はくうん足下あしもと 千般せんぱんの錦花きんか 無機はたものなくつねにおり 百種はくしゅの靈物れいぶつ 誰人たれひとか陶冶とうやする  きたのぞめばすなはち有湖こあり やくけいいちはくけい 東西とうざいせまく南北なんぼくながし  西にしにかへりみれば亦有またありいちしょう ごうありじゅうけい 眄坤こんをかへりみればさらにありいちだい 羃計べきけいいちせんちょう 東西とうざい不闊ひろからず南北長なんぼくながくとおし  四面しめんの高岑こうしん 倒影かげをたおし水中すいちゅうに はくしゅのそう 木石ぼくせき自在おのずからあり  ぎんせつ敷地ちにしき 金華きんかひらくえだに けい無私わたくしなし まんしょく誰逃たれかのがれん 山水さんすいあいえいず 乍看たちまちにみてたつはらわたを 瞻佇せんちょ未飽いまだあかず 風雪ふうせつ趁人ひとをおふ  われむすんで蝸菴かあんを 于其その坤角こんかくに  じゅうしてこれに禮懺らいさんす  つとめへたりさんしちにちを  すでにとげて斯願このがんを  便すなはちかへるきょに
いんぬる延暦えんりゃく三年784三月下旬 さらにのぼるをへて五箇ごかにち いたるかの南湖なんこほとりに 四月上旬 つくりえたりひとつの小舩しょうせんを ながさ二丈にじょうひろさ三尺さんじゃく すなはちとともにさんしと さおさしてこに遊覽ゆうらんす  あまねくみるに四壁しへきを 神麗しんれい夥多おほし ひがしに西にしにみて 汎濫はんらんして自逸おのづからやすし 日暮ひくれきょうあまって しいてつくみなみのすに  其洲そのすはすなはちさることりくを三十丈餘じょうよ 方圓ほうえん三十丈餘  しょしゅうなかに 美華びかとめり焉  またさらにあそぶ西湖さいこに  さること東湖とうこを十五許里きょり  またみるに北湖ほくこを  さること南湖なんこを三十許里きょり ならびに雖盡つくすといへどもびを  すべて不如しかずみなみには  其南湖なんこはそく碧水へきすいちょうきょうなり ふかさ不可測はかるべからず 千年松栢しょうはく臨水而みずにのぞんで かたむけ綠蓋りょくがいを はくいの檜杉かいさん竦巌而いわをにそばだって かまへるこんろうを  五彩ごさいはな いち株而かぶにして雑色いろをまじへ ろくとり  おなじくし響而こえを異觜くちばしひとなる  白鶴はくかくまいなぎさに こんたわむるみずに  ふることつばさを如鈴すずのごとく吐音こえをはくこと 玉響たまのごとくにひびく 松風しょうふう懸琴きんをかけ 坻浪ちろう調しらぶこを  五音ごいんあらそってそうしてんいんを 八徳はっとく澹澹たんたんとして自貯おのずからたくはふ  きりのちょうくものまく  時時ときどき難陀之なんだの羃歷/罒+歷へきれきするなり  ほしのとうもしび電炬でんきょ  數數しばしば普香ふこうとりたばねたる  ちゅうのえんげつを  しるげん鏡智きょうちを  あおぎくうりの惠*日えにちを  さとる遍智之へんちのあることをわれに  ついて此勝地このしょうちに  いささかたて伽藍がらんを  名曰なづけていふ神宮寺じんぐうじと  住此ここにじゅうして修道しゅうどう  荏苒じんせんとして四祀しいしなり         
七年788四月さらに移住いじゅうす北涯ほくがいに 四望しぼう無㝵さわりなく 沙塲しゃじょう可愛あいすべし いろ 難名なづけがたしおどろかすめを こう 叵尋たづねがたしよろこばすいを 靈仙りょうせん不知しらずいづくにかさる 神人しんじん髣髴ほうふつ如存そんするがごとく 忿いかり歳精さいせいなきをきすること  おしむ王侯おうこう不遊あそばざるを  おもへども餓虎がこを不遇あわず  おとずれども子喬しきょうをゆきさる  かんじ華*藏かぞうを於心海しんかいに ねんず實相じっそうを於眉山びざんに 蘊蘿うんら遮寒かんをさへぎり 蔭葉いんよう避暑しょをさる喫菜きつさい 喫水きつすいらく在中ざいちゅう 乍彳たちまちにゆき乍亍たちまちにとどまって出塵外じんがいにいず 九皐きゅうこうのつるのこえ 易逹たっしやすし于天てんに
さる延歴中 柏原かしはらの皇帝こうてい聞之これをきこしめし 便すなはちにんず上野こうづけのくにの講師こうしに  利他りたありときに  虚心きょしん逐物ものにしたがふ  又建立こんりゅうして華嚴けごんの精舎しょうじゃを  於都賀つがのこおり城山しろやまに  就此ここにつき往彼かしこにゆきて  物利ものをりし弘道みちをひろむ さる大同二年807 くににあり陽九ようく 州司しゅうしせしむ法師ほうしに祈雨きう すなはちのぼり補陀洛山ふだらくさんに祈禱きとうす  おうじてときに甘雨かんう霶霈ほうはいたりひゃくこくほうとうす  所有しょうのぶつごう 不能ふのう縷説るせつ
あゝ じつしゃかたくとどまり 人間にんかんやすしへんじ しょうしんたちまちにいたりて じゃ虚蠃きょるいす しょうゆうこれつとめて 能事のうじ畢矣おはんぬ さきの下野しもつけの博士はくしこう 法師ほうしよし 秩滿ちつまんじて入京けいにいる  于時ときに法師ほうし なげく勝境しょうけいなきことを  もとむしょくしぶんを於余筆よがふでに  こうこあり  固辭こじすれども不免まぬかれず  したがってきょに抽毫ふでをぬきんず すなはち爲銘めいをつくっていはく                 


  けいおう裂地ちをさき
  すいのぼるてんに
  蟾烏せんう運轉うんてんして
  ばんるい跰 はう‏/へん闐 てんたり
  山海さんかいまじはり峙 そばだって
  幽明ゆうめいことなるみち
  ぞく生滅しょうめつ
  眞水しんすいだうのさきなり 其一

  一塵いちじん搆嶽がくをかまへ
  一滴いってきふかふすこを
  埃涓あいけん委聚つもりあつまって
  畫餝*ぐわしょくす神都しんとを
  嶺岑れいしん不梯かけはしせず
  鸑鷟がくぞく無圖はかることなし
  皚皚がいがいたる雪嶺せつれい
  曷矚たれかみ誰廬 たれかいほりせん 其二

  沙門しゃもんしょうどう
  ちくさう松柯しょうか
  あおぎこの正覺しょうがく
  じゅず之逹磨このたらま
  帰依きえ觀音くわんのん
  禮拜らいはい釋迦しゃか
  殉道じゅんどう斗藪とそう
  直入ちょくにゅう嵯峨さが
  龍 りゅうのごとくにおどり絶巘ぜつけんに
  鳳 ほうのごときにあがって經過けいくわ
  神明しんめいごして
  れきらんさん 其三

  山也やままた崢嶸さうくわう
  水也みずまた泓澄わいたい
  綺華きか灼灼しゃくしゃく
  異鳥いてう嚶嚶あうあう
  地籟ちらい天籟てんらい
  如筑ちくのごとく如箏そうのごとく
  異人いじん乍浴 たちまちによくし
  音樂おんがくときになる 其四

  一覽いちらん消憂しょうゆう
  ひゃくはんきゅう
  人間じんかん莫比たぐひなし
  天上てんじょうむしろともがら
  孫興そんこう擲筆ふでをなけうつ
  くわくあに周  あまねからんや
  咄哉つたないかな同志どうし
  なんぞせざるゆうゆう 其五

弘仁之こうにんのとし敦牂之とんさうのとし月次つきなみ壯朔さうさく三十之さんしふの癸酉也きゆうなり <銅板碑
弘仁之敦米+之歳月次壯朔三十之癸酉也 <性霊集 岩波大系本は「祥」で補正
弘仁之五敦午牂之歳月次八月壯朔三十之癸酉也 <神護寺蔵

ひと相知あいしる 不必在かならずしも…あらず対面たいめんひさしくかたる こころ通則とおすればけいかい遇也ぐうなり  どうこう 生年せいねんより不相見あいみず さひわひによりて博士はくしこうに ききてその情素之せいその雅致がちを  かねてこうむるこふことを洛山らくさんきを 不才ふさいにしてあたれりじんに  不敢あへて…せず辭譲じじょう すなはちぬきんでて拙詞せつしを 并書ならびにしょする絹素けんそのうへに 詞翰しかん倶弱ともによはうして ふかくおそるげんなおしろからんことを よするに以瓦礫がれきをもってして ひょうす其情そのせいのいたることを  はくねんもとに 莫忘わするることなくして相憶耳あひおもはんのみ
西岳せいがく沙門しゃもん遍照金剛へんぜうこんごうだい
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*蔥<艹+忩
●上の原文は銅板碑再現を試みたものです。改行は適宜。其一,其二…は銅板碑にはない。暫定原文ですから今後も修正を加える予定です。(2016/9)
●2023年7月に暫定的にルビをふってみました。無学なのでとてつもない作業になってしまいました。伝統的な読みと自分用の漢字の振り仮名が混じった半端なルビです。参考程度にしてください。
●岩波古典大系の性霊集は隆澄が貞応二年1223に書写した醍醐本を定本としている。宝治元年1247に御筆本との校異を示している。
大系に日光市二荒山神社に再興した碑があると書かれているのは事実とは異なる。維新の神仏分離で取り払われてしまった。
醍醐本は見ることができないので,大系本と銅板碑との違いを挙げておく。左が銅板碑。
「並」は大系ではすべて「竝」
「亦不到菩提」は「亦不至菩提」
「怳惚怳惚」は「怳々惚々」
「似夢似寤」は「似夢似悟」
「四面高岑」は「四面高峯」
「木石自在」は「木石自有」
「金華」「美華」「華藏」は「花」 「五彩之花」は「華」
「勤經三七日」は「動經三七日」
「去陸三十丈餘 方圓三十丈餘」は「去陸三百丈來 方圓三千丈餘」
「去南湖三十許里」は「去南三十許里」
「同響而異觜」は「同響而異鳴」
「坻浪調鼓」は「砥浪調鼓」
「仰空裡惠日」は「仰空裏慧日」
「輙抽拙詞」は「輒抽拙詞」
▉参項データ
●男体山
標高2,486m 中宮祠から比高約1200m 別称:二荒山ふたらさん,日光山,黒髪山,国神山くにかみさん
●中禅寺湖
標高1,269m 水深163m 面積11.9平方キロ 一周25km 東西6.7km 南北最大3km
上野島こうづけしま
岸から58m 一周70m(水位で変化)
西ノ湖さいのこ
中禅寺湖の西岸千手ヶ浜から西に2km 面積0.7平方キロ 一周最大時1.5km(雨量で変化)
●湯ノ湖
中禅寺湖から北に約7km 標高1,475m 水深12m 面積0.32平方キロ 一周2.8km 九合目からは見える
▉1200年前の碑文の数値は目測のおおよそなので現在の測量値とは合わなくて当然。北にある百頃の湖は北西の湯ノ湖,西の二十餘頃の一小湖は西ノ湖だろう。千餘町とあるのが中禅寺湖。
南の砂洲は上野島。陸から三十丈は神護寺書では三百丈になっている。三十丈=58m(周尺1丈=1.94m)は西の岸から上野島までおおよそ合っている。三百丈の場合は580m,1丈1.8mで計算すると300丈=540m,いずれも適当な岸が見つからない。南岸から1丈=3.03mで900mに近いが,「去陸」の起点なら北岸が自然で,その場合約1700mで合わない。広さも距離も水位で変化するが方圓三千丈の島も出島も中禅寺湖にはない。誇張にしては大きすぎる。「方圓三十丈」はあまりに小島なので想像できずに三百,三千に修正してしまったか。単位「丈」の再考が必要だが,まだ不明です。

登拝門前の唐銅鳥居 左は本殿 中央が碑
碑の足もとの解説 タバコは左右10cm 奥行30センチ
正面 銅板の跡に嵌め込まれた板  
銅板の代わりに「靈峯二荒山」板 立派な碑だ 宝永二年1705建立
初代碑ではない 碑の裏側 公辨法親王の再建の辞

▉中宮祠にある「靈峰二荒山」碑裏面の文 スペース適宜

重建沙門勝道上補陀落山碑記
人藉霊境以進道 境因勝人而彰名 如補陀落山亦其徴哉 勝道上人創窮其頂 精練功成 弘法大師揮天縦才文之詳矣 於是世人昭昭知其爲名山也 其文則載性霊集傳到于今 而其碑則歴年遼邈掃地不存れきねんりょうばく ちをはらいてそんせず 嗚呼廢而不興非人情也 近者余鼎樹貞珉刻其文焉 庶乎使登臨者讀雄文以審霊境 知霊境誠爲進道之縁矣 然則此擧豈曰 無所係乎世 有高談浄心 蔑視山水者 不亦謬哉 因題碑隂聊紀歳月云
   時
寶永二年1705歳次乙酉春三月 前天台座主一品公辨親王識

▉『遍照発揮性靈集』に「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序」が収録されている。
▉京都「神護寺」に同文の軸が保存されている。題は水が抜けていて「厯山」で「瑩玄珠」と対になっていない。2行目は「沙門遍照金剛撰」と撰の字。 最後は「弘仁之五敦午米+羊之歳月次八月壮朔三十之癸酉也」とあり,年は「五」干支は「午」月は「八月」と過剰に明記されている。
▉京都「醍醐寺三宝院」に二荒山碑の絹本が保存されている。これはまだ見たことがない。

▉中宮祠にあった「沙門勝道上補陀洛山碑」,別名「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑」「日光山碑」「二荒山碑」の銅板は維新政府の神仏分離令を拡大解釈した役人の横暴で撤去され,立木観音のある中禅寺に移される。ついで昭和30年に市内の常行堂に降りてきて,40年頃には再びいろは坂を登って中禅寺に帰ってくる。こうした変遷を経て,現在は市内の輪王寺宝物殿に保存されている。したがって岩波古典大系『性霊集』に碑が中宮祠にあると書かれているのは誤り。碑文の刻まれた銅板は遅くとも1871年には撤去された。登坂口に残っているのは抜け殻。

▉碑文成立の経緯は,1200年ほど前,空海の学友で下野国学の伊博士が京に帰るのを知った70歳頃の勝道上人が,伊博士を介して,二荒山開山ならびに山岳修業の適地中禅寺湖畔の景観を名文家である空海に依頼して書いてもらったものである。
空海は日光に来ることはなかったが,勝道上人自らがしたためたかなり詳細な記録が空海の許に届けられ,さらに伊博士の口頭によるアドバイスがあって,千年の古松が湖畔をとりまくというような生き生きとした奥日光ガイドが書かれた。
成立は弘仁五年814八月三十日。空海41歳の時である。勝道上人は空海の名文を見ることなく寂滅したが,上人の第一級の伝記資料として現在に伝わることとなった。さらに空海の見てきたかのような日光山の描写のために,空海瀧尾神社創建説など空海来日光の伝説を生むことにもなった。
完成品は日光に届けられ,碑が建てられた。神護寺の書や『性靈集』に記録された原稿は,弟子が日光に送る前に書写したもの,またはさらに何度か書き写されたもの。日光に届いたはずの空海の自筆は残念ながら行方不明。

▉神仏分離まで中宮祠の男体山登山口にあった二代目「開山碑」は文章成立から891年後の宝永二年1705に銅板に刻まれた。銅板は取り外されて輪王寺に移されたが2016年現在,中宮祠に残っている石碑の裏面には前天台座主一品公辨親王が識した漢文が刻まれている。「重建沙門勝道上補陀落山碑」と題し「その碑則ち歴年遼邈として地を掃ひて存せず。嗚呼廃れて興さざるは人情にあらざるなり」とあるので,宝永よりはるか以前に初代の碑があった。『中禅寺私記』が碑文に触れているので保延七年1141以前から碑はあったことになる。日光の発展を考えると,東照宮ができる以前に碑はなくなっていた。もし江戸初期に残っていたなら,東照宮建立と同時に周辺も整備されたので,たとえ摩滅していたにせよ,まちがいなく現在に伝わったはずである。

▉天海編纂の『東照社縁起』五巻仮名縁起の元になった三巻「真名縁起」の中巻に碑文または性霊集からの引用が寛永十七年1640に記録されている。小松茂美監修『東照社縁起』中央公論1994刊に写真版が収録されている。小さくて読みにくいが,「夫勘當山古記弘法大師碑文」として,文頭の蘇巓鷲嶽から終見其頂までが飛びとびに収録されている。出典は不明。銅板碑建立の65年前である。初代碑については残念ながら言及されていない。[ ] は追加されている文,−− は省略されている箇所
「蘇巓鷲嶽 異人所都 逹水龍坎 靈物斯在 所以異人卜宅 所以靈物化產 [又]靈仙不知何去 神人髣髴如存 忿歳精之無記 惜王侯之不遊 [然則諸賢雲?衆雖為住山建立以勝道為光道] 神邈救蟻之齢 意清惜囊之齒 厭聚落之轟々 仰林泉之皓然 -- 奉爲諸神祗 冩經圖佛 裂裳裹足 弃命殉道 --仰願-- 若使神明有知 願察我心 我所圖冩經及像等 當至山頂 為神供養 以崇神威 饒群生福 發願訖 跨白雪之皚々 攀綠葉之璀璨 脚踏一半 身疲力竭 憇息信宿 終見其頂」
最後に「其外勝道権化見諸記命弘法當山碑文記傳教慈覚之記廣故略之」とある。傳教慈覚・円仁794-864が碑文を紹介しているので本文は略すという意味か?
五巻の狩野探幽画つき仮名縁起の勝道上人の項は碑文をもとに脚色してかなり平易に書き直されている。 (東照社から東照宮に改称したのは正保二年1645)  

輪王寺宝物殿の碑文の一部がWebに見つかった。[銅板碑の一部]
写真の一行目は【枝池鏡無私萬色誰逃】と読める。『唐文拾遺』では【枝▉鏡無私萬▉詛逃】と版木に彫られた。
『唐文拾遺』は題に下野国の文字が入っているので中宮祠の碑の拓本から起こされた。出典の記載がないのだが,仮説として初代の石碑がもとになっているのではないだろうか,宝永二年1705の銅板がもとであれば「池」と「色」が判読不能ということはありえないのではないかと考えたが『史徴墨寶考證』の銅板碑の拓本でも判読不能で,残念ながら初代ではなさそうだ。
『唐文拾遺』は19世紀末の編纂だが,1000巻の『全唐文』蒐集で漏れた大量の文書が『唐文拾遺』と『唐文続拾』に収録される。尋常でない編纂の努力の過程で,拓本末尾に「沙門遍照金剛」の名が,尋常でない学識の編者の目に留まり,欠字多数にもかかわらず幸運にも収録されたのである。(2016/9/15)
▉銅板碑建立から212年後の天保八年1837刊,植田孟縉『日光山誌』に初代の碑について書かれている。
「古碑銘 性霊集に載せたる弘法大師の記文の銘なり。唐銅鳥居のもとにあり。勝道上人神護景雲元年767より跋渉を企て給ひ,漸々延暦の初に至り,登臨を極めたる銘文,弘法大師書記し賜ふ古碑,此所にありしが,破潰して文字見ゆる所なきに仍つて,当山座主宮准三后公辨法親王御再興。准后の御撰文もあり。是を不朽に伝へ賜はん事を尊慮ありて,銅にて箱を造り,石碑の上に被らしむるゆゑ,原文は見えねど,其銅の箱に細字に彫り附けたり。此碑は唐銅鳥居の前に建てり。銘文次に出せり」
表面に碑文を刻んだ銅製の箱で初代の石碑を覆ったと書かれている。続いて『日光山誌』は公辨法親王の再興の文を載せている。
「而其ノ碑ハ即チ暦年遼邈,掃テ存セズ也」とあり,矛盾する。宝永二年1705以前に,碑はどこかに消えてしまったと解すべきだろう。『日光山誌』は中宮祠碑裏面を写したはずだが,表題が「沙門勝道」から「勝道上人」と変更され,「上ル」の意味がなくなり,「掃地」の地が脱落し,さらに其,登二字が脱落,刻が刊に変更されている。「掃地」と読まなかったところから銅の箱説になったのだろう。現今の中宮祠の碑は,厚さもあり,なかなか立派な構造で,これを銅の箱で覆う形は想像できない。幕府の金銭的後ろ盾によって,土台から再建されたものである(鼎樹貞珉)。天和三年1683の大地震による堂宇崩壊,翌貞享元年1684の日光大延焼によって西町,東町,山内を全焼した日光山の復旧に当たったのが第三代輪王寺宮公辨法親王である。
▉『史徴墨寶考證』明治二十二年1889,第一巻「弘法大師」の項に「日光ノ碑ハ男體山ヘ登ル路ノ唐銅鳥居ノ側ニアリシニ星霜ヲ經テ破潰シ文字剥蝕シテ見難キヲ以テ寶永二年1705ニ座主公辨法親王銅ニテ箱ヲ作リ其碑ヲ覆ヒ銅面ニ細字ニテ其文ヲ雕刻シ」とあるのは『日光山誌』を典拠にしたのだろう。空海を紹介する文ではなんと大同十一年に空海が下野二荒山に登ったと書いてしまった。
▉昭和41年刊の『日光山輪王寺史』(日光山輪王寺門跡内日光山史編纂室)の巻頭に寶永二年再興の銅板碑の写真が載っている。A5判の版面縦いっぱいだがたいそう小さい。それでも拡大鏡で字形だけはぼんやり確認できるが,観音か観世か区別できないし,文頭文末は反射光で見えない。
『集古十種 碑銘之部 下』(松平定信編・寛政十二年1800広瀬蒙斎の序文)「(九)二から(九)五」に銅板碑の拓本が載っている。建立から90年後ほどの貴重な拓本である。読めないところが多数あって文頭はまったく読めない。縦に長い碑文を四分割し一部を拡大してあり,切り張りしたため重複があって判読に苦労するが,「観音」が確認できる。同響而異觜は判然としないが「鳴」ではなく「角」の形に見える。去陸三十丈餘は神護寺書では三百丈來になっている。岩波古典大系では三百三千を採用。慶長・元和頃に版木に刻まれた性霊集では「去陸三十丈餘方圓三十丈餘」で三百三千ではないので,銅板碑は性霊集の異本を公辨親王が書にして刻んだのだろう。
また,銅板では末尾五編の詩文は4字ずつ区切って整然と彫られていて,鸑鷟無圖,歷覽山河で改行されていない。『集古十種』の拓本は切り張りで同所で改行されている。『唐文拾遺』では同所の改行の後に〔一首〕〔二首〕の文字が加えてあるので『唐文拾遺』は『集古十種』収録の銅板碑拓本から起こしたことになる。欠字の具合から,この版をもとにしている。初代の碑文の内容を再現していれば貴重品と言えたのだが。〔一首〕〔二首〕にはだいぶ悩まされた。(2016/9/22)
『集古十種 碑銘 九』の版は鮮明である。上記は4ページに縮小されたが,こちらは13ページを割いて収録されている。同一の拓本を解読しやすくレイアウトしただけなので,詩編改行と重複も上記とまったく同じで,解読不能の箇所もそのまま明瞭に解読不能であるが,鮮明なので解読の手助けになる。
『續古今遺文』附録「古今石逸文」(明治四十五年1912六月一日)山田孝雄編p.45は銅板碑から文字起こししている。 こちらが先に入手できていれば,もう少し再現作業の効率が良かったのだが。
蔥は艹+忩,觜,觀華藏,帰依觀音を採用している。詩文は四字区切りで組み,眞水路先」のように 」 で区切りが示されている。甘雨が甘兩,年号は「弘仁元年敦牂之歳月次壯朔三十之癸酉也」と「之年」を「元年」にしてしまった。「人之相知」以下は記録されていない。
『集古十種』『唐文拾遺』『續古今遺文』を合わせると銅板碑文が再現できそうだ。(2016/9/24)
評釈のいちばんのおすすめは「性霊集講義」。じっくり読めば「北涯」を夷狄の地と曲解することもない。中禅寺湖が頂上に登って初めて見えたなどとはどこにも書いていないことも分かる。
漢字力,漢文力,仏教語力は幼稚園児ていどなので,分かるだけで理解するにはまだまだほど遠いが。空海はさらに古代中国語の能力がはかりしれないので。

▉2016年9月現在,銅板碑は輪王寺宝物殿で本物を見ることができる。ガラス越しに1mほど先に展示してある。もちろん撮影禁止。8mmほどの厚さの銅板で,箱状ではない。中宮祠の「靈峰二荒山」の板のところに嵌め込まれていた。箱状説は現物を見ないで記録してしまったに違いない。また箱状だと碑裏面の公辨法親王の再建の辞が見えなくなってしまう。文字はかなり鮮明で『集古十種 碑銘 九』の拓本よりはるかに明瞭である。ただし距離がある上にガラスの反射で見えにくい。
ここに掲載した最初の碑文は現物で補正した。
判然としない文字は「菴or庵」「惣or揔」「栢or柏」「搆or構」「歷に罒はついているように見える」「空裡惠or慧日」「蘊蘿は艹がついているように見える」「粹氣の米が示に見える」「餝の右側が分に見える」「曷矚の目が身に見える」
次回は望遠鏡を持っていきます。
(輪王寺にはぜひ銅板碑文の鮮明な写真を公開していただきたい。拓本より現代の写真技術の方が再現性が高いです。勝道上人も勝境の記録のないことを歎かれており,多くの人に読んでもらうために建立した公開碑なのですから。)

▉参考
『唐文拾遺』巻之七十二 陸心源輯 1888年刊
僧空海のところに,「空海亦稱遍照金鋼延暦中入唐受書於韓方明彼國號宏法大師」とあり,「七祖賛」と「大和州益田池碑銘」の二編につづいて「下野國日光山碑」の題で収録されている。
読めないところを「▢」「缺五字」などとしているので,碑文(拓本)をもとにしていると推測できる。缺の数字は当てはまらない場合もある。
まず『唐文拾遺』の穴埋めから碑文の再現を試みた。
「▢」と「缺字」は『性霊集』により[ ]で補った。「銅板碑」と異なる文字の後ろに( )で補正した。『性霊集』にない文字は〔 〕に記述した。示偏はネにも見えるので適宜。その他も銅板書体を優先し正字体で統一しなかった。木偏と手偏も区別しにくい。確定できない文字も残っている。

『唐文拾遺』下野國日光山碑
横嶺(蘇巓)[鷲]嶽 異人所都 [逹]水龍坎 靈物斯在 所以異人[卜宅] 所以靈物[化產 豈徒然乎] 淸(請)[試論]人(之)
天(夫) 暗(境)[随心變 心垢]則境溺(濁) 心逐境移 境間[閑]則心[朗] 心地(境)[冥]會 通(道)[徳]玄[存] 至如 能寂[常]居以利見 妙祥(祥)鎭[住]以[接引] 提山[垂迹] [孤岸]津梁 [並皆]靡不 依仁山託智水 臺[鏡瑩]磨 [俯應機]水 者也
有沙門勝道者 [下]郢(野)[芳賀]人也 俗姓君(若)田氏 神[邈救蟻]之[齢] [意淸惜囊]之齒 桎枷四民之主(生)事 調[飢三諦之滅]業 厭[聚落]之轟轟 仰林泉之皓然
粤有同州補陀洛山 [蔥/艹+忩/嶺插]銀漢 [白]峯衝[碧落] [磤]雷腹而鼉吼 [翔鳳足而羊角 魑魅罕通 人蹊也絶 借問振]古 未有[攀躋]者
法師顧義成而興歎 仰[勇猛]以[策意]  [遂]以去神護景雲元年[四]月上旬[跋]上 雪深巌峻 雲密(霧)雷辻(迷) 不能上也 [還]住半腹 三七[日]而却還
又天[應]元年四月上旬 更事攀渉(陟) 亦上不得也
二年三月中 奉為諸神祇 冩經圖佛 [裂裳裹]足 弃命殉道 [繦]負經像 至于山麓 [讀]經禮佛 一七日夜 堅發誓曰 若使神明有知 願[察]我[心] 我[所圖]冩經及像[等] [當至]山頂 爲[神]供養 以[崇]神威 饒群生福 仰願 善神加威 [毒龍巻霧] 山魅前導 助果我願 我若不到山頂 亦不到(至)菩提 
如[是發願訖] [跨]白雲(雪)之[皚皚] 攀琭(綠)葉之璀粲(璨) 脚[踏一半] 身疲力竭 憇息信宿 淨几(終見)[其頂] 忼(怳)惚[怳惚] 似夢似寤 不因乘査 忽入雲漢 不[嘗]妙藥 得見[神窟] 一喜一悲 心魂難待(持)
山之爲状也 東[西]龍臥 [彌望無]極 南[北]虎踞 [棲]息有興 指妙高以[爲]位(儔) [引]輪[鐵]而[作帶] 笑衡岱之猶卑 哂[崐香]之又劣 日出先明 月来晩入 不假天[眼] [萬]里[目前] 何處[更]乘鵠 白雲足下 干(千)般[錦花] [無機常織] 百種[靈物] 誰人陶冶 北望則有湖 約計一百頃 東西狹南北長 西顧亦有一小湖 合有二十餘頃 [眄]坤[更]有一大湖 幕(羃)計一千餘町 東[西]不[闊]南北長遠 四面高岑 倒影水四(中) [百種]異[莊] 水(木)石自在(有) 銀[雪敷]地 金[華發]枝 [池]鏡無私 萬[色]詛(誰)逃 山水相映 乍[看絶]腸 [瞻]佇未飽 周(風)皇(雪)[趁]人 我[結]蝸[菴] 于其坤角 住之禮懺 勤經三七日 已[遂斯]願 便歸故居
當(去)[延暦]三年三月下旬 更上[經]五[箇日] [至彼]南湖邊 四月上旬 造得一小舩 長二丈廣三尺 即與二三子 [棹湖]遊覽 遍[眺]四壁 神[麗]夥多 東看西看 汎濫自[逸] 日暮[興]餘 [強託]南洲 其洲 [則]去[陸]三十丈餘 方圓三十丈餘 諸洲之中 [美花]富[焉] 復更遊西湖 去東湖十五許里 又覽北湖 去南湖三十許里 並[雖]裏(盡)表(美) [惣不如南 二(其)南湖則碧水澄鏡 深不可測 千年[松栢] [臨]水而[傾綠]蓋 [百囲]檜杉 竦[巌]而搆*[紺樓] 五[彩]之花 一林[株]而雜色 六時之[鳥] 同[響]而異[鳴/觜/嘴] 白鶴舞汀 樓(紺)龜[鳧]戯水 [振翼]如土+令(鈴) 上(吐)[音]玉響 松風懸琴 坻浪調鼓 五音爭奏天韻 八[徳]澹澹自貯 [霧帳雲幕] [時時難]陀之[羃]厯(罒+歷) 星燈[電]炬 數數[普香]之[把束] 見池中圓月 知普賢之[鏡智] 仰[空]裡惠(慧)日 覺迎(遍)智之[在]我 [託此]勝地 [聊]建伽藍 名曰神宮寺 住此修道 荏苒四紀(祀)
廿(七)年四月 更移住[北涯] [四望無㝵 沙塲]可愛 [異華]之色 [難]名[驚目] 丁(奇)香之具(臭) [叵尋悦]意 靈仙不知何去 神人髣髴如存 忿[歳]精之無記 昔(惜)王侯之不遊 思餓虎而不遇 訪子喬而適去 觀華*蔵於心海 念實相於[眉]山 [蘊]蘿[遮寒] [蔭葉避暑] [喫菜喫]水樂在中 乍彳乍亍出[塵]外 九皐[鶴]聲 易遠(逹)于天
去延厯(暦)中 拍(柏)原皇帝聞之 便任上野國講師 利他有時 虚心逐物 又建立華嚴精舎 於都賀郡城山 就此[往]彼 利物弘道 去大同[二]三(年) [國]有[陽]九 川[州]司令法師祈雨 師則上補陀洛山祈禱 應時甘雨霶霈百穀豐登 所有佛業 不能縷説
咨 日車難駐 人間易變 従心忽至 [四]蛇虛[蠃] 堤[攝]誘是務 能事畢矣 前下野伊博士公 與[法師善] [秩滿]八(入)[京] 于時法師 歎[勝境]之無記 要白(属)文於余筆 伊公與余故 固辭不免 課虛抽毫/毫は銅板碑にはあるが集古十種では切り張りで脱落した/ 乃爲銘曰
  維(鷄)黄裂地 粹氣昇天 詹(蟾)烏運轉 萬類跰闐 山海[錯]峙 幽明殊阡 俗波生滅 眞水道先 [其一]
一塵構嶽 一滴深湖 埃涓委聚 盡[畫]餝神都 嶺岑不梯 鸑鷟無圖 〔一首:拓本の切り張りで誤解され,挿入された〕皚皚雪嶺 曷[矚]誰[廬] [其二]
沙門勝道 竹操松柯 仰之正覺 誦之逹磨 白衣(帰依)觀音* 禮拜釋迦 [殉道斗藪] 直入嵯峨 龍汎(跳)絶巘 鳳擧[經過] 神明威護 厯(歷)覽山河〔二首〕 [其三]
山也崢嶸 水也泓澄 綺華灼灼 異鳥嚶嚶 地籟天籟 如筑如箏 異人乍浴 音樂時鳴 [其四]
一覽*彌暇(消憂) 百煩自休 人間莫比 天上寧儔 孫興亦(擲)筆 郭詞豈周 咄哉同志 何不優遊 [其五]
弘仁之年敦牂之歳月次壯朔三十〔日〕之癸酉也
人之相知 不必在對面久話 意通則傾蓋之遇也 余與[道]公 生年不相見 幸因伊博士公 聞其情素之雅致 兼蒙請洛山之記 余不才當仁 不敢辭輟[譲] [輙]抽拙詞 并書絹素上 詞翰倶弱 深恐玄之猶白 寄以瓦礫 表其情至 百年之下 莫忘相憶耳
西岳沙門遍照金剛題





 

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