大田原市の神社資料



▊金 田 村 *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-63丁
本村は中田原,野嶋,荒井,戸野内,今泉,岡,市野澤,小瀧,練貫,奥澤,上奥澤,南金丸,北金丸,乙連澤,富池,羽田,倉骨,鹿畑,北大久及ひ赤瀬の舊二十村を合せて一の自治區となせしものにて其幅員東西一里十八町南北二里十八町あり地勢平坦にして蛇尾川西方を流れ他の三面は原野茫々として相亘り舊國道は東西に通して中央を貫けり 又假定縣道北隅に開通して交通に頗る便なり 村民多くは農耕を業とし市野澤練貫地方は風俗活潑の傾きあるも他は朴直の風あり
古來の沿革に付ては徃時は各村太田原或黑羽又は幕府の領邑に屬し維新后栃木縣に屬し第三大區七小區同九小區に編入せられ后三戸長役塲に分屬せられ次て町村制實施に當り各村を合せて今日に及ひしものとす
本村には郷社二社及ひ村社十八社ありて戸數八百三十余戸人口五千九百余人を有し其他大字羽田には有名の無格社二社あり

南金丸

那須神社

[なす神社]

栃木県大田原市・南金丸1628 みなみかねまる

主祭神:応神天皇 配神は高龗神[たかおかみのかみ]の他に,別雷命,大己貴命,少彦名命,稲倉魂命,須佐之男命,火産霊神,武甕槌命
境内社:高良神社・宗像神社・神明宮・愛宕神社・日本武神社・祖霊社ほか
高龗神は大正五年に合祀された「八龍神社」の祭神か。境内の由緒板書の文字は口みっつ付きの正字で「高龗」
下野国造奈良別命が国家鎮護のため金瓊(金の玉)を埋め,天照皇大神・日本武尊・春日大神を祭ったのがはじまり。4世紀頃の創建となる古社。
延暦年中782-806征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を勧請して金丸八幡宮と名づける。
那須与一が扇の的を射るとき心中に念じたのがここの八幡大神で,天下に有名になる。
元禄二年1689芭蕉が参詣。「那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣ず。与一扇の的を射し時,別しては我国氏神正八幡と誓ひしもこの神社にてはべると聞けば,感應殊にしきりに覚えらる」(『奥の細道』)。 寛永十八年1641修繕の本殿。
本殿は天正五年1577に建立されたものを寛永十七年1640黒羽の城主大関高増が修繕したもの。寛永大修理銘銅版が保存されており「施主大關土佐守丹氏高増 于時寛永十八年辛巳 猛夏吉祥辰日欽日 奉行大沼助左右門貞清…」と刻まれている。
寛永十九年建立の楼門。
本殿前の石燈籠も寛永十八年1641奉納の貴重品。
本殿左に加具津知命(軻遇突智命)の愛宕神社,右手に神明宮。
明治三十八年1905一の鳥居。明治十二年1879再建の銅製二の鳥居(寛永十七年1640建立を改修と推定)。 楼門右手に手前から足尾大神,淡島大神,高良大神・春日大神。
文化三丙申1806石燈籠,明治四十二年1909石燈籠。昭和二十八年1953石燈籠。
明治六年に「那須神社」と改称。6717坪の大社。
大正五年1916十一月三日以下の社を合併
・北金丸荒町・別雷神社とその境内社疱瘡神社,八雲神社‏‏/真菰沫・温泉神社‏/北境・稲荷神社,八龍神社‏/堀之内・稲荷神社,鹿島神社
大正九年1920十一月二十七日以下の境内社を合祀
・温泉神社,雷神社,愛宕神社,八雲神社
昭和十六年1941,北金丸荒田の愛宕神社を境内社として合祀
例祭:9月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 惣社 八幡宮 金丸 大宮司
*『下野国誌』嘉永元年1848脱稿 嘉永三年1850刊行 四巻
金丸八幡宮 那須郡金丸村にあり。神主小泉石見と云,社領五十石黒羽候より寄附なり,傳へ云源義家朝臣,奥州征伐の刻,建立する所なりといへり
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部 惣社 八幡宮 金丸村鎮座 祭主小林氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-63-64丁
那須郡金田村大字南金丸鎭座 郷社 那須神社 祭神 譽田別命 祭日陰暦二月十五日/八月十五日
建物本社間口三間奥行二間 拜殿間口五間半奥行二間 神樂殿間口三間奥行二間 社用塲間口三間奥行二間 神門間口三間五尺奥行二間 末社高良神社外數社有り 一鳥居木造 二華表⾭銅造 石燈籠四基 洗手水磐一個 社務所間口七間奥行二間半 寳物弓一張久壽二年1155三浦介義澄奉納 矢ノ根仝年上仝氏奉納 太刀一振文治三年1187那須與市奉納 太刀一振白川關入道義親奉納 鰐口一口文和四年1355那須忠彷奉納 鰐口一口天正五年1577大關安碩奉納 鴿骨寛永十七年1640本社修理の時箱棟より発見せしもの今に朽壊せす 八幡宮宇佐記十五巻 愚童訓二巻 愚童記二巻 四摩制伏箭四本 御像繪一幅以上延寶九年1681八月中大關増榮奉納 鎧大關因幡守増義奉納 靈竹一竿より二股に分れたるもの 氏子百九十戸總代藤田勇馬磯助右衛門室井祜之亟松本幸之助 社掌津田政信本村大字仝住
本社記を按するに人皇十七代仁徳天皇御宇下野國造奈良別王國家鎭護として本地清浄の地を撰ひ金瓊を埋め宮を建て天照皇大神日本武尊春日大明神を祀りしか濫觴にして當時此の地を野澤と云へしを金丸と改稱せしと 後延暦年中782~806征夷大将軍坂上田村麿奥夷征討の時此地の森々として奇樹あるを視て望めは古塚に小祠あり 此に應神天皇を勸請して金丸八幡宮と稱し戰勝を祈る 後冷泉天皇の御宇天喜五年1057源頼義源義家奥州征伐の時粟野驛に宿陣しけるに西の杜に白鳩の飛交ふを見近習をして視さしめしに八幡宮の祠ありと告く 義家大いに喜ひ身親ら戰勝を祈り勝利を得は宮殿を建立し此里を神領に寄附せんとを誓ひて奥州に下向し速に賊を平き歸陣のとき首藤權守資家に仰せて宮殿を建立し馬塲を奥州街路まて貫き以て兩側には松杉檜等を植並へ神領五十石を寄附せらる 后ち堀川院の御宇寛治二年1088出羽の賊淸原武衡家衡等亂をなす 源義家に命して追討せしむ 義家下向の時本社に詣して立願ありしか凱陣の時再ひ首藤資家に仰て神門及ひ地主大神の本社を修理せしむ 久壽二年1155三浦上總介義澄命を奉して那須野悪狐を退治せし時も本社に祈願し容易く射止ることを得たりとて其弓を奉納せり 元暦元年1184那須與市宗隆四國の八嶋にて扇的を射る時本社に祈誓して名誉を揚けしかは文治三年1187土佐杉を以て本社を再築し太刀一腰的扇を射し弓をも納め神領として本郡乙連澤村を寄附し那須家世々の鎭守神となし大華表を建立し總社八幡宮と金色の字を彫刻し扁額を捧け社領を寄附し重實の太刀をも奉納し月々幣帛を献し四時の神樂を奏し神意を慰め奉りける 後寛永十七年1640黒羽の城主大關信濃守増榮→高増本社を改築し金丸村檜木澤村の地内に於て社領五十石を寄附し累代崇敬せしむ 明治六年1873那須神社と改稱し南金丸外十三村の郷社に列せられ仝十二年南金丸北金丸村の郷社となる 神職は建久年中1190~99小泉忠治那須宗隆の命により社務を司りしより小泉忠友に至るまて三十二代本社宮司の職に補し世々従五位下に叙られ世襲するも明治三年1870忠友職を罷め三田稱平祠官となり幾もなく職を辞す 津田政信祠掌となりしより今に奉仕す 社域六千五百九十四坪平坦の地にして境内には古杉老樹蓊蔚として枝を交へ馬塲の長さ百八十間あり 社前に淸流ありて之に神橋を架し此の流れを御水洗とはなれり 慈鎭和尚の歌に東路の野澤と云へしは此の處なりと云ふ「東路のかすみけふはかりあやめの名をもかりてけるかな」社寶は前に顕せし三浦介か奉納せし弓を始め古太刀古書一々枚擧に遑あらす 好古の士は社務所に請ふて一見せは頗る美術工藝の参考に資するものあらんや
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 鹿島大明神 北金丸 大宮司
那須郡 湯泉大明神 金丸 森本筑後
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
鹿嶋大明神 金丸村鎮座 祭主直篦氏ナリ
湯泉大明神 金丸村鎮座 祭主小泉氏社家森下氏ナリ
明治三十八年1905一の鳥居
二の鳥居 明治十二年1879再建 袴の上は寛永十七年1640造立
永代神楽解説
由緒 寛永十九年1642手水石
天明八戊申年1788石燈籠 楼門 八幡宮額
弓を持っている
二の鳥居方向
寛永十九年1642奉納石燈籠 石燈籠解説
于時寛永十九壬午年の文字
拝殿 總社八幡宮額
文治三年1187現物? 拝殿内 矢が見える
本殿 本殿
本殿 本殿裏,着色されていた
2018本殿裏から 2006本殿裏から 本殿右手
稲荷社 神明宮 愛宕神社
愛宕神社裏手 本殿左手
金丸塚 金丸塚解説 以前の解説板
神門手前右手 左から足尾,淡島,高良・春日大神
楼門から 昭和九年1934狛犬 昭和十年1935本殿屋根模様替之碑
那須神社の文化財について 御神木
北金丸

八雲神社

[やくも神社]

栃木県大田原市・北金丸1505

主祭神:素盞嗚命
大正五年1916に那須神社に合祀されたが,その後も奉祭されている。大正十一年1922十月生駒祭記念碑が建立された。荒町会館の西隣りに鎭座。
羽田

八龍神社

[はちりゅう神社]

栃木県大田原市・羽田846 はんだ

旧地名:大田原市羽田字館ノ越
主祭神:級長戸辺命,級長津彦命
白鳥の飛来する羽田沼がある。[はんだ]と読む。羽田小学校のすぐ北。市営バスの停留所の名前が「八龍神社前」
大正八年1919三月廿八日建立の鳥居のつぎに年代不詳の石塔が6基と「我等の祖先の寺院野間村満徳寺明治始年廃寺と為れり・・・其の因由を後世に傳へんと建立」した昭和15年の記念碑が並ぶ。
石段の途中右手に境内社に素戔嗚命を祭神とする「八雲神社」
左手に「大国主X 天保七」1836石塔
「奉八龍神 明治十一年寅1878六月廿八日」の石燈籠。
「熊野神社」石塔。
寛延二年1749に本殿を再建している。
「与一の里おおたわら名木・八龍神社のヒイラギ」樹齢260年
春の大祭には文政四年以来,五穀豊饒家内安全の太々神楽を奉納。
7月27,28日には天棚をつくり,一昼夜,昔は三昼夜笛太鼓を鳴らして五穀豊饒を祈る天祭を行うが,高龗神とは無関係。
本殿拝殿:トタン葺 例祭:3月28日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻8-67丁
金田村大字羽田館の越鎭座 無格社 八龍神社 祭神 級長戸辺命 級長津彦命 祭日陰暦三月二十八日 建物本社間口二尺奥行三尺 雨覆六尺四方栃葺 拜殿間口三間半奥行三間萱葺 神樂殿間口四間半奥行三間萱葺 末社一社 木鳥居一基 石燈籠二基 信徒五十五戸總代小泉幸之助 戸邊利右衛門 平山源次郎 兼社掌星野輝由住所仝上
本社勸請年月不詳 寛延二年1749九月本社再建す 拜殿は明治参拾年三月神樂殿は明治十四年中の再建なり 社域百六十四坪高丘の地にして古松老杉森然として繁茂し毎年祭典には大々神樂等あり衆庶の詣する社なり

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・羽田1171

主祭神:大己貴命・少彦名命
創建年不詳。71坪。
例祭:10月20日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-65丁
金田村大字羽田西之内鎭座 村社 朝日社溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 祭日陰暦九月十九日 建物本社間口四尺奥行八尺栃葺 雨覆二間四方杉皮葺 拜殿間口二間半奥行三間杉皮葺 末社十一社 碑三基 木鳥居一基 石燈籠七基 木證籠二基 石獅子二基 手洗磐一個 寶物剣一振 古鏡一面 湯泉大明神扁額一面神祇官領長上従三位侍従卜部良長公宝暦三年1753奉納 溫泉大明神扁額一面従五位下大關伊豫守丹治増儀公奉納 同扁額一面陸軍少將正四位大沼渡氏明治廿九年1896九月奉納 朝日社檀山人川泉斐湯泉宝暦三年1753羽田貞計奉納 氏子五十戸總代三員 社掌星野輝由仝村大字仝四十番地住
本社創立年月詳ならすと雖とも往昔は羽田遠江守の崇敬にして后木須越前守及ひ黒羽藩主淨法寺禰六郎崇敬あり 殊に領主より高九斗四升八合の除地を附せらる 延宝七年1679十月本社再建す 拜殿は明明治三十二年1899九月再築し衆庶尊崇の社にて神號扁額の外に數多の奉額あり就中黒羽藩主小山田榮樹翁の長歌又ひ六ケ仙和歌の三神蒙古軍艦襲來せし時伊勢の神風の圖畫等一層目立ち覺へす感に堪へさらしむ 社域百六十八坪高燥の地にして古杉老樫蓊蔚にして幽致愛すへし

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・羽田680

主祭神:大己貴命・少彦名命 境内社:神明宮・天満宮
創建年不詳。山火事で焼失し,延宝七年1679本殿再建。昭和六十一年1986改築。168坪。
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 羽田 星野津内
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-68丁
金田村大字羽田藤形輪鎭座 無格社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏少彦名命 祭日九月十九日 建物本社間口二尺奥行四尺 拜殿九尺四方栃葺 末社三社 木鳥居一基 石燈籠二基 氏子五戸 兼社掌星野照由
本社創建年月未詳 拜殿は明治十三年1880八月中の再連なり 殊に本社は領主の崇敬ありて祭田九畝十五歩を寄附せらると云ふ 社域六十六坪丘陵にあり境内には古杉老檜蓊欝にして風景佳なり
小滝

小瀧神社

[こだき神社]

栃木県大田原市・小滝1268 こだき

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:素盞嗚命・保食神・住吉神
創建年等不詳。
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 小滝(大田原領) 植木宮内
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-66丁
金田村大字小瀧鎭座 村社 小瀧神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命 建物本社間口四尺二寸奥行五尺五寸 末社四社 氏子六十四戸
本社創立不詳 宝暦十一年1761五月十一日祝融の災に罹りたるにより直に再建す 社域四百十七坪字田中に在り

岡の神社

[神社]

栃木県大田原市・岡118-12

今泉隣接の岡に木製鳥居。
市野沢

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・市野沢828 いちのさわ

主祭神:大己貴命 配神:別雷神 境内社:稲荷神社・水神・神明宮
寛永年間1624~44創建,宝暦十一年1761現在地に遷宮。明治二十三年1890拝殿造営。
例祭:10月15日 2月23日別雷神例祭
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 市沢 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 市沢村鎮座 祭主佐藤氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-66丁
金田村大字市野澤鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 建物本社間口四尺奥行八尺 拜殿間口三間半奥行二間半 末社三社 氏子七十六戸
本社創立詳ならす 社域二百七十六坪字西郷内に在り

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県大田原市・市野沢1655

主祭神:倉稲魂命
詳しいことは分からない。石鳥居がある。

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・戸野内?

主祭神:大己貴命・少彦名命
現在社不明。562坪の境内に間口三間と記録されているので探し方が悪い。
上宮温泉神社不明。両戸野内も不明なのでここにあげておきます。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 上宮温泉神社 戸野内 小針豊前
那須郡 湯泉大明神 両戸野内 小針豊前
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
上宮湯泉神社 戸野内村鎮座 祭主小針氏ナリ
湯泉大明神 戸野内村鎮座 祭主小針氏ナリ
湯泉大明神 両戸野内村鎮座 祭主小針氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-66丁
金田村大字戸野内鎭座· 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏ 少彦名命‏
建物本社間口四尺五寸奥行三尺五寸 拜殿間口三間奥行二間 氏子二十六戸
本社創立は天文十一年1542九月にして領主丹治氏故ありて本社を再建す 爾后大田原藩にて代々修理せり 社域五百六十二坪字宮の前に在りて社殿壯觀たり
奥沢 おくさわ

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・奥沢898/上奥沢886

主祭神:大己貴命 配神:少彦名命・瓊瓊杵命
創建年等不詳。社殿造営は宝永七年1710。奥沢と上奥沢の境界に鎭座して,両村の鎮守。番地が二つあるのはそのため。874坪。
例祭:10月15日
以下の「奥津』は地名併記,邇邇芸命から,ここ奥沢のことでいいだろう。
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
湯泉大明神 奥津村鎮座 祭主小針氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-66丁
金田村大字奥津/上奥津鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 天津瓊々杵命 建物本社間口四尺三寸奥行四尺五寸 拜殿間口一間四尺奥行二間半 氏子四十九戸
本社創立不詳 徃時より兩村の鎭守神たり 社域五百六十二坪を有せり

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県大田原市・奥沢688

主祭神:倉稲魂命
寛永六年1629創建。296坪。
例祭:3月15日
乙連沢

熊野神社

[くまの神社]

栃木県大田原市・乙連沢681 おとれざわ

主祭神:伊弉諾命・伊弉冊命 創建年等詳しいことは分からない。118坪。
例祭:10月15日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-67丁
金田村大字乙連澤鎭座 村社 熊野神社 祭神伊弉諾命‏/伊弉冊命
建物本社間口一尺一寸奥行二尺一寸 拜殿間口五尺奥行一間 氏子十五戸
本社勸請年月不詳 社域百二十二坪字前山に在り

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県大田原市・乙連沢339-2 おとれざわ

主祭神:譽田別命・神功皇后 境内社:八坂神社・雷電神社
創建年は分からない。宝暦十一年1761焼失,再建。嘉永三年1850再度焼失。同年九月には再建。明治三十五年1902現在地に遷宮。118坪。
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
八幡社 乙連沢 植木宮内

音ヶ峯神社

[神社]

栃木県大田原市・乙連沢 おとれざわ

主祭神:誉田別命・神速素盞嗚命・火別雷命
現在社は分からない。
現在社不明。450坪の境内に間口二間,ガラス燈籠まで記録されているので探し方が悪い。上記八幡宮の境内社が八坂神社と雷電神社なのでそちらか。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-65丁
金田村大字乙連澤鎭座 村社 音ヶ峯神社 祭神譽田別命 神速素盞嗚命 火別雷神 祭日陰暦九月十五日 建物本社六尺四方栃葺 雨覆一丈四方栃葺 拜殿間口二間奥行三間栃葺 華表一基 石燈籠六基 硝子燈籠二基 水手磐一基 移轉記念碑一基 石階ニヶ所 末社七社 寶物額一面明治三十五年1902陸軍中將従三位野木公眞筆 鈴一個 氏子十七戸總代四員 社掌星野輝由仝村大字仝四十番地住
社傳に曰く本社創立年月詳にせすと雖も地方の古社にて壯麗なりしか嘉永三年1850弓*徒火を失し爲めに本社悉く灰燼に歸す 故に時の名主役年寄頭白井平右衛門卒先して造營に着手し仝年八月卅日工事全く竣功せしを以て九月五日遷宮式を行ふと云ふ 而るに本社境内地は素より沮且不便なるにより區長白井平三郎氏總代白井安吉小松竹三郎仝金治郎坂内金治郎等か首唱者となり氏子村民に胥議り地を西山に卜し明治卅五年移轉合祀を縣廳に出願し仝年八月廿九日官裁を得て十月六日村社八幡宮及ひ無格社八坂雷神兩社を移轉合併し音ケ峯神社と稱へ奉る 仝三十六年一月十日を以て遷宮の正式を擧行す 社域四百五十坪境内には小杉馬塲の両側には櫻樹を植へ花時には一簇の香雲杉樹の深翠と相映し眺望頗る佳なり
練貫

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・練貫601 ねりぬき

主祭神:大己貴命 境内社:稲荷神社
元暦年間1184~85那須與一が勧請。『栃木県神社誌』平成18年版に下記の大武市正の名が書かれている。「江戸時代の頃は,湯泉大明神といい,大武市正が祀官していた」。233坪。
『下野掌覧』ではもう一社湯泉大明神が記録されている。
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 練貫 大武市正
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 沢練村鎮座 祭主大武氏ナリ
湯泉大明神 貫両村鎮座 祭主大武氏ナリ →もう一社あった
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-67丁
金田村大字練貫鎭座 村社 溫泉神社 祭神大已貴命
建物本社間口六尺四方 拜殿間口二間四尺奥行一間四尺 氏子三十四戸
本社創立不詳 社域二百三十三坪字鴻巣に在り

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県大田原市・練貫1 ねりぬき

主祭神:火産霊命
寛文十年1670黒磯野間の西光院住職が嵯峨野の愛宕神社より神託を受け,元禄七年1694創立と伝わる。平成十年本殿拝殿を改築。氏子数は当時の60戸から明治期には34戸に減少し平成には82戸に増加している。
旧陸羽街道沿いに朱鳥居が隠れている。
例祭:4月24日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-67丁
金田村大字練貫鎭座 村社 溫泉神社 祭神大已貴命
建物本社間口六尺四方 拜殿間口二間四尺奥行一間四尺 氏子三十四戸
本社創立不詳 社域二百三十三坪字鴻巣に在り
富池

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・富池1059 とみいけ 字登谷

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:武甕槌命・応神天皇・天照皇大神・素盞嗚尊・菅原道真公・伊弉諾命・伊弉冊命・宇賀之御魂命・奥津彦命・比茂爐来命
太白神社と称し大己貴命,少彦名命を祭神とした。明治四十二年1909富池ほか五字の24社を合祀して温泉神社と改称。この24社に現在社不明の江戸期の社がありそうだ。1133坪。
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 寺形 ←寺方 養田隠岐 →寺方は明治八年1875冨岡村に
那須郡 湯泉大明神 吉際 小針豊前 →吉際[よしぎわ]は明治八年1875冨岡村に
那須郡 湯泉大明神 中太原 佐藤近江 →中田原は富池の南隣り
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
湯泉大明神 寺形村鎮座 祭主養田氏ナリ
湯泉大明神 古際村鎮座 祭主小針氏ナリ
湯泉大明神 中田原村鎮座 祭主佐藤氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-66丁
金田村大字野嶋鎭座 村社 神明宮 祭神大日孁貴命 建物本社間口二尺奥行三尺 氏子十七戸
本社創立不詳 社域百五十五坪字水口屋敷通に在り

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県大田原市・富池868

主祭神:火産霊命
詳しいことは分からない。
今泉

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・今泉?

主祭神:大己貴命・少彦名命
現在社不明。今泉139-1?
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
湯泉大明神 今泉 小針豊前
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 今泉村鎮座 祭主小針氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-66丁
金田村大字今泉鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命
建物本社間口三尺奥行四尺 末社二社 氏子十八戸
本社は元禄十一年1698九月の創立なり 社域百六十八坪字中町に在り
荒井

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・荒井?

主祭神:大己貴命・少彦名命
江戸期に荒井に記録された二社の現在社は分からない。荒井は中田原と戸野内,富池,町島に囲まれている。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 荒井 白井左近
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 荒井村鎮座 祭主臼井氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-67丁
・金田村大字荒井字中梓鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏少彦名命
建物本社間口三尺奥行五尺 末社二社 氏子三十戸
本社は文永元年1264九月の創立にして三森三郎重純の勸請なり 社域九十坪を有す
・金田村大字荒井鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏ 少彦名命‏
建物本社間口四尺奥行一間 氏子十ニ戸
本社創立遼遠にして詳かならすと雖も往古より文安年間まて地頭世々の祈願所にして社域百二十七坪字溫泉前にあり
赤瀬

熊野神社

[くまの神社]

栃木県大田原市・赤瀬63 あかぜ

主祭神:伊弉諾神・伊弉冊神
寛文六年1666創建。150坪。
例祭:10月14日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 熊野大権現 赤瀬 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
熊野神社 赤瀬村鎮座 祭主佐藤氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-67丁
金田村大字赤瀬鎭座 村社  熊野神社 祭神伊弉諾命・伊弉冊命 建物本社間口四尺二寸奥行二尺八寸 拜殿間口三間奥行二間 氏子三戸
本社創立は寛文六年1666九月十八日にして社域百坪を有せり
北大和久

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・北大和久37 きたおおわぐ

主祭神:大国主命 境内社:愛宕神社
延徳元年1489創建。古い棟札は宝暦七年1757のもの。
平成五年石鳥居。明治十六年1883四月吉日石燈籠。
天保十一年1840十二月大黒天。当社の文字は鳥居額のように細身の書体で統一されいる。
例祭:10月15日 216坪
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 大和久 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 大和久村鎮座 祭主佐藤氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-67丁
金田村大字北大和久鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏少彦名命
建物本社三尺四方 拜殿間口一間半奥行二間 末社一社 氏子十六戸
創立は延徳元年1489にして湯本溫泉神社の分祀なり 社域二百十六坪平坦の地に在り
細身の文字
大黒天 天保十一年1840 奉納
大和久氏子一同 平成五年 明治十六年1883
  村内安全
倉骨

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・倉骨788 くらほね

主祭神:大己貴命・少彦名命
文治三年1187那須與一が創建。笠原,東倉骨で奉祭。450坪。
遠くから鮮やかな朱色の両部鳥居が見える。天保五年甲午1834九月石燈籠。拝殿前左右にも石燈籠があった。土台と宝珠が残っている。拝殿内に神輿。
境内に倉骨東部集落センター。
例祭:10月15日 前日の14日に豊年踊り
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 倉保根 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 倉保根村鎮座 祭主佐藤氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-67丁
金田村大字倉骨字久保畑鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏少彦名命 祭日十月二十九日 建物本社五尺四方杉皮葺 拜殿間口二間奥行二間萱葺 末社五社 鳥居一基 寶物鏡一面 氏子四十六戸 社掌齊藤最住所仝上
本社創立不詳 社域四百六十五坪 境内には杉檜蓊蔚として佳趣幽遂なり
鳥居額
本殿 神輿
天保五年1834
 
 
 
倉骨

羽黒山神社

[はぐろさん神社]

栃木県那須塩原市・倉骨22

主祭神:
詳しいことは分からない。
鹿畑

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・鹿畑647 かばた

主祭神:大己貴命・少彦名命 境内社:稲荷神社・疱瘡神社
創建年不詳。久寿二年1155秋,那須岳の麓から降りてきた二頭の白鹿の託宣により鹿畑の地名となった。久寿二年は九尾金毛の妖狐退治の年で,季節は春だったのでその年の秋に来たことになる。220坪。
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 鹿畑 別当某
鹿畑

鹿畑天神

[かばたてんじん]

栃木県大田原市・鹿畑62 かばた

主祭神:菅原道真公
創建年不詳。詳しいことは分からない。大正十三年1924甲子塔。拝殿右手に庚申塔。石鳥居柱に「平成二十三年三月二十一日東日本大震災により改修,平成二十五年十二月鹿畑自治会建立」と刻まれている。。
上奥沢

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県那須塩原市・上奥沢575 かみおくさわ

主祭神:火産霊命
詳しいことは分からない。
那須郡には200年以上前の『鹿沼聞書・下野神名帳』に記載されたが現在社不明の社がいくつかある。『下野掌覧』にも記録されている。 *『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 鹿島大明神 奥津 大宮司 →大宮司は那須神社の神主
那須郡 湯泉大明神 行者 佐藤近江 →旧金田村の神主
那須郡 湯泉大明神 上深田 佐藤近江
那須郡 湯泉大明神 下深田 佐藤近江
那須郡 湯泉大明神 魚沢 小針豊前 →大田原神社や旧金田村の神主
那須郡 湯泉大明神 阿田 碓井大和 →旧川西村の神主
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
鹿嶋大明神 奥津村鎮座 祭主直篦氏ナリ →大豆田湯泉神社の神主
湯泉大明神 上深田村鎮座 祭主佐藤氏ナリ
湯泉大明神 下深田村鎮座 祭主佐藤氏ナリ

大田原の神社は経済的・地理的・体力的に回れそうもありませんので,下調べだけにとどめます。

▊那 須 郡 『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀▢霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て太田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ太田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には太田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拝し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關太田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す

 

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