「高お神社」を推測する


目的または命令があって神社を計画する。その時点で祭祀する神は決まっている。
農作地帯で水の神をまつり,旱魃には雨乞いをする。この場合は「龗神」がまつられる。下野ではこの雨の神に『古事記』の表記「淤加美」「淤迦美」字を採用して「淤加美大明神」を名のった。また「高尾大明神」を名のった社が多かった。維新政府が神道による支配を目論んで強制的に社号を割り当てた際に,いずれの社もほぼ一律に『日本書紀』の神号をあて「高龗神社」に統一されてしまった。このときすでに高龗は[たかお]と読んでいたと考えられる。さらに地元では「おみょうじんさま」「ごんげんさま」「おいなりさん」などのように社名をつけずに呼ぶのが一般的で,「たかおかみ」をつけて呼ぶ習慣はなかった。そこに難しい画数の多い漢字を割り振られた上に「○○村の△神社の氏子」の△部分を言わなければいけなくなる。「江戸時代には,たかおkamiさまとかなんとか言ってたな」「たかおのkamiさまだっけか」「高尾だったな」「んじゃあ,たかお神社でいいべ」というところで明治政府が強制した「高龗神社」は「たかお神社」の読みになった。
別の理屈では『日本書紀』で「雷神・大山祇神」は字がついているのに「たかお」の後ろに「神」字が付いていないので「たかおかみ」の「かみ」を「」に当ててしまう。するとすんなり「たかお社」になってしまう。
相当年月「たかお神社」と言い習わしてきたことを考えると,そのままでなければいけないだろう。もともとは「たかおかみの神」を祀る「高尾大明神」が多かったのだから,お上が割り振った高龗を「たかお」と読むのは間違いである,ということはできない。
 
奈良県の場合は「たか神社」が7社,「たかおかみ神社」が3社。(小生の浅学の範囲数)
栃木県の場合は高龗神社を「たかお神社」と呼ぶ社がが81社,
「闇お神社」が1社。
250年ほど前にはまだ18社が[たかおかみ]と呼ばれていた。 現在の神社庁によれば「たかおかみ神社」が1社のはずが,土地の人は「たかお」。
同じく神社庁によれば「たかおおかみ神社」が1社のはずが,土地の人は「たかお」で,2018年現在「たかおおかみ神社」は一つもない。
旧今市の轟あたりに「高神社」が2社=「高男荷渡神社」(たかお・にわたり)1社を含む。
 
また残念なことに雨の下の口をはぶいて龍を書いた社が多数ある。漢字はいくらでもつくれるとはいえ,神社名としては古い文献に出てくる文字を使う方がいいと思う。龗も靇も書家にとってどちらが書きやすいということもない。

もちろん書家の漢字力の問題が残る。日本書紀まで調べようとしない書家が額文字を書くという恐ろしいことも起きる。
 さらに奉納される額や燈籠におかしな字が書かれることも多い。文字が混在する原因になっている。西刑部・万所の石燈籠は「尾」と刻まれて奉納されたが「龗」に修正している。
栃木飛山城跡前の神社のように口3つがヨコメ・アミガシラ,つまり箱を縦棒二本で区切っている字形も多い。始めは違和感があったが,口3つなしが多いことに気づき,尾に出会ったりすると罒はまだまだましと思えるようになった。

龗の頭音[オ・ヲ]から「尾・雄・男」に
高雄8社・高尾14社・高男2社は高龗と無関係かも知れないと思っていたが,記紀に高尾・高雄・高男の神はいない。であれば,江戸またはそれ以前から「龗」を[ヲ・オ]と発音していたかもしれず,難しい漢字を比較的画数の少ない字に換えた可能性も捨てきれない。
関東北部の田舎は「おらぢ」「おらげ」の世界である。甲類乙類もあやしい。「此ニハ於箇美ト云フ」の於字は「オ」だが,雄,尾は「ヲ」なので高龗は高尾にならない,なんて理屈は通用しない。このことは下野の田舎だから混乱したわけではなく,『日本書紀』を書写するほどの超のつく知識人でも[オ・ヲ]で混乱している。
永徳元年1381版『日本書紀』写本では龗のルビは[オ・ヲ]混在,於は[ヲ], 元和七年1621版書記は龗は[ヲカミ],しかし発音注では於竹+同美は[オカミ]となっていて[オ・ヲ]混在。したがって下野国では龗の[オ・ヲ]から「尾・雄・男」字に容易に転換できるのである。
「雄」と「尾」
福井市本堂町の「高」は十一面観音・阿弥陀如来・聖観音菩薩。アメのうずめと猿田彦である。水の神とは関係がないが「高雄」は社名としてあり得るか,と思っていたら,「」を「」に書き換えた神社が壬生町上稲葉にあった。この社の由来書には建礼門院にお仕えした「少納言高」の遺言で因幡の国の「高大明神」を勧請したと書かれている。しかし「高神社」は江戸時代には「高」であった証拠の旧鳥居柱が残っている。明治三十六年1903刊『下野神社沿革誌』でもこの社の解説で雄・尾が混在している。
」は八王子の高尾山に引きずられたか。まさか龍の尻尾のつもりではないと思うが。
250年前の『鹿沼聞書・下野神名帳』では「高尾大明神」「高尾大権現」と尾で記録された社が54と圧倒的に多い。すでに[たかお]と呼び習わされていたことが分かる。江戸時代初期の吉原の花魁高太夫が有名になって,[たかお]の音に「尾」を使ってしまった可能性も高いと思う。
大明神額については戦後になって国家統制を離れ,江戸時代のものを持ち出して掛けたのだろう。
なお栃木県以外に「尾」を使っているのは12社,「雄」は4社まで確認したが全国的にはたいそう少ない。

栃木県には「龗」と「尾・雄」が混在する神社がある。
社号標には「高尾」と書いてあるが氏子さんの奉納額は「高龗神社」になっているのが上阿久津。この逆で鳥居額が「高龗神社」,拝殿額が「高尾」となっているのが立伏。
芳賀町給部の「高神社」の祭神は「高龗神」。したがって「龗」と「尾」は関係が深いどころの話ではない。
はもともとは「」であった。

まとめてみると:
龗・尾が混在9社
河内町立伏
さくら市上阿久津
益子町益子
宇都宮市下篠井
宇都宮市石井町(鬼怒橋)
宇都宮市上桑島
宇都宮市東刑部
宇都宮市梁瀬
宇都宮市駒生
龗・雄が混在3社
益子町下大羽
日光市沓掛
雄・尾が混在1社
壬生町上稲葉
7社
日光に2社,芹沼・轟と1.5km以内に隣接している

」については皆目わからない。男は全国的にも珍しく栃木県の旧今市市の2社以外にまだ見つからない。今市は高龗神社のメッカである。芹沼には,「高男大明神」と刻まれた1775年の石燈籠がある。240年前にはすでに「男」が使われている。しかし祭神は高龗神なので「男」も,もとは「」であったか?祭神も維新の際に変えられた可能性もあるが。「高神社」情報をぜひお寄せ頂きたい。
タカオカミに関係のあるクズ龍神社に関しては栃木県に見つからないので未調査。
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その後,神仏分離による社号変遷を調べることになり,下野の古記録をデータベース化して照合したところ小生のここまでの高尾にかかわる表現は,かなり控えめであったと思う。文字の混在の理由もあっさり解決したので,左側目次の下の方「栃木県の高龗神社にかかわる古記録」と「下野神名帳・下野神社沿革誌対照表」をご覧いただきたい。
神社は人が集まって成立するので,時の権力に影響というより,支配される性質をもっている。戦後の神道指令から76年,タカオカミの神もようやく自由に雨を降らせたり嵐を止めたりできるようになっただろうか。

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